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札幌地方裁判所 昭和51年(わ)772号 判決

本籍《省略》

住居《省略》

無職 大森勝久

昭和二四年九月七日生

右の者に対する爆発物取締罰則違反、殺人、殺人未遂被告事件について、当裁判所は、検察官佐藤勝、同高橋晧太郎、同本間達三各出席の上審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人を死刑に処する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

第一事実

(犯行に至る経緯及び動機)

被告人は、昭和二四年九月、岐阜県多治見市において、父正一、母和子の長男として生まれ、昭和四三年三月岐阜県立多治見北高校を卒業したのち、同年四月国立岐阜大学教育学部数学科に入学し、小・中学校の教諭免許を取得して昭和四七年三月同大学を卒業したものの、教職に就かないで、土工夫として働くうち、同年六月頃デモに参加して加藤三郎と知り合いとなり、同人から勧められて、同年七月初め頃当時住んでいた岐阜市から岐阜県美濃加茂市に移住し、同市で「コンミューン美濃加茂」に加わり、加藤らとともに、太田竜著「辺境最深部に向って退却せよ」を輪読するなどしているうち、次第にアイヌ、朝鮮人問題等に関心を抱くようになり、同年九月末頃には、もっと自己を変革したいという考えから、同市を離れ、以後、笹島(名古屋)、釜ヶ崎(大阪)、山谷(東京)などで日雇いの土工夫などとして働いていたが、昭和四八年四月初め頃、日本国家がアイヌをどのように支配しているか、アイヌの生活或いは意識はどのようになっているかを調査する目的で来道し、約二か月間滞在したのち、美濃加茂市などを経て同年一〇月末頃多治見市の両親の許に戻り、自動車運転免許を取得して日本通運多治見支店の運転助手として勤務していたが、昭和四九年五月二七日退職し、再び土工夫として働くようになった。その後、被告人は、日本帝国主義のアイヌモシリ占領に対して闘いを挑もうと考え、同年六月二九日再び来道し、アイヌの住んでいる日高地方などに近い北海道苫小牧市に居住し、店員などをして稼働する傍ら、アイヌの実態を調査したり、北海道庁等がアイヌモシリの占領機関乃至収奪機関であるという考えから、これらを攻撃対象として調査するとともに、爆発物の製造に必要な書籍等を入手して、その知識の習得に努めていたところ、札幌市には北海道庁等アイヌモシリ占領の中枢機関が多数存在するとの認識から、同市で具体的な爆弾闘争の準備を進めようと考え、昭和五〇年六月二八日同市に移住し、当初は同市東区《番地省略》所在の小幡荘に居住し、ウエーター、駐車場係員として稼働しながら、準備を重ねていたが、同荘の自室が四・五畳一間で狭く、しかも隣室との境がベニヤ板一枚であるため物音が隣室に漏れ易く、爆弾を製造する場所としては適していないとして、同年一一月三日、同区《番地省略》所在の二宮恒男方に転居した。そして、被告人は、北海道庁を攻撃目標とする爆弾闘争を実行に移すため、爆弾製造及び声明文作成を推し進め、決行に備えていた。

(罪となるべき事実)

被告人は、氏名不詳者と共謀の上、治安を妨げかつ人の身体財産を害する目的並びに爆発地点付近に現在する多数人に対する殺意をもって、昭和五一年三月二日午前八時二〇分過ぎ頃、消火器(容量約五・二リットル)一本に塩素酸ナトリウム、硫黄、木炭粉の混合爆薬を詰め、これに旅行用時計、乾電池、電気雷管等からなる時限式起爆装置を接続させ、これらをスポーツバッグに収納した手製の時限式消火器爆弾一個を、札幌市中央区北三条西六丁目所在の北海道庁本庁舎一階西側四号エレベーター昇降口北側の東方に面した壁際の磁器タイル張り床面に装置し、同日午前九時二分頃、これを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により、死亡の可能性のある地域たる別紙死亡者一覧表記載の被爆場所に居合わせた五十嵐怜子及び溝井是徳を同表記載のとおり殺害したが、同様死亡の可能性のある地域たる別紙負傷者一覧表記載の被爆場所に居合わせた服部祐昌ほか八〇名に対しては、同表記載のとおりの傷害を負わせたにとどまり、殺害するに至らなかったものである。

第二証拠の標目《省略》

第三事実認定について

被告人は、本件犯行について、捜査段階では黙秘を続け、当公判廷においてはこれを全面的に否認し、弁護人も、被告人と本件犯行とを結び付ける的確な証拠は何もなく、かつ被告人にはアリバイがあるから、被告人は無罪である旨主張するので、以下逐次検討を加える。

一  本件爆破事件の発生から被告人逮捕までの経緯

1  本件爆破事件の発生状況

前掲関係証拠によれば、次の事実が認められる。すなわち、昭和五一年三月二日午前九時二分頃、札幌市中央区北三条西六丁目所在の北海道庁本庁舎(以下「道庁」という。但し、北海道庁を「道庁」という場合もある)一階エレベーターホールにおいて、何者かによって装置された爆発物が爆発し、その結果、別紙死亡者及び負傷者各一覧表記載のとおり、同ホールに居合わせた五十嵐怜子(当時四五歳)が爆発によるショックにより、同溝井是徳(当時五〇歳)が右側腹部に受けた爆創による失血により、いずれも同日死亡し、また同ホール等に居合わせた服部祐昌(当時三三歳)ほか八〇名が加療約四日乃至治ゆ見込不明の傷害を負い、うち一か月以上の重傷者は実に七四名に上ぼっていること、他方右爆発により同ホール四号エレベーター昇降口北側の東方に面した壁際の磁器タイル張り床面に、最大深度五・一センチメートル、最小深度一・二センチメートルの矩形状の漏斗孔が形成され、同所が爆心地と認められるところ、爆心地に面した壁の大理石は、床部分から天井部分まで、約二〇センチメートルの幅で全部剥離して、コンクリート壁が露出し、また四号エレベーターの扉は、内側に倒れ込むように傾斜し、地階に落下寸前の状態となるなど爆心地及び同ホールの破壊状況には凄まじいものがあるが、同庁舎玄関ホールにおいても天井構造物等の損壊落下をきたし、爆心地から一七・八メートル離れた同庁舎東出入口周辺の複層ガラス及び四一・七メートル離れた同庁舎北側回廊の複層ガラスも爆風によって破損し、更に本件爆発物の破片である鉄片(消火器の胴板片)一個(検八一、なお裁判所の押収番号はすべて省略する)は、同庁舎西玄関から西方五二・一メートル離れた地点まで飛散しており、本件爆発により合計九、七〇〇万円余に上ぼる物的損害が発生したことが認められる。

2  本件爆発物の構造等

(一) 本件爆発物本体の容器

前掲関係証拠によれば、本件爆発物本体の容器(以下「爆発物本体の容器」を「爆体容器」という)は、株式会社初田製作所製のハツタ式一〇LP1型消火器(容量約五・二リットル、外径約一四センチメートル、胴の長さ約三七センチメートル)で、昭和四五年一月二三日から同年一二月二一日までの間に製造されたものであること、本件に使用された消火器は、炭酸ガスボンベ、提げレバー、操作レバー、排圧管、送粉管が取り外され、ホースも付根から切断されているほか、その口金に近いわん曲部には、起爆装置である電気雷管の脚線を通すための直径約五ミリメートルの穴が開けられ、ヤスリ仕上げが施されていたことが認められる。

(二) 本件爆薬

前掲関係証拠によれば、本件爆発物の爆薬は、塩素酸ナトリウム、硫黄、木炭粉を混合した爆薬であること、その量は後述するように消火器内部に砂糖や起爆装置等も入れられていることから、消火器の容量である約五・二リットルをやや下回るものであることが認められる。

(三) 本件時限装置

前掲関係証拠によれば、本件爆発物の時限装置には時計が使用されており、その時計は、シチズントラベルウォッチ・コンパクトアラーム・ツーリスト〇二四(緑色文字板、以下「ツーリスト〇二四」という)であること、本件ツーリスト〇二四は、ケースが取り外され、電源の一方の極に通ずるリード線が下板止めネジの一本に、そのネジ頭と文字板受足との間に巻き付けられて接続され、そして電源のもう一方の極に通ずるリード線は、リンに開けられた直径約二ミリメートルの穴を通してリンの内側に貼り付けられた金属片に接続されていたこと、そして右金属片は、アラームが鳴る際のしゅ木によって叩かれる部分に、絶縁作用を有する接着剤を塗布して、その上に貼り付けられていたことが認められる。

(四) 本件起爆装置

前掲関係証拠によれば、本件起爆装置には、六号瞬発電気雷管が用いられ、その電源には、東芝製積層乾電池キングパワー〇〇六P〈U〉九Vが用いられていたこと、またリード線には、黄色ビニールよう被覆の素線数一〇本のより線が用いられ、これが、電気雷管付属の白色ビニールよう被覆脚線、誤爆予防の保安スイッチの役割を果たす中間スイッチ、乾電池、時限装置である時計にそれぞれ接続されて電気回路を構成していること、なお、右中間スイッチには東芝製DS八〇一二が用いられていたことが認められる。

(五) 本件付着物

前掲関係証拠によれば、本件消火器のバルブケース内部及び口金には砂糖が固着し、本件消火器のバルブケース、ふたメネジ及びホース締付金具並びに電気雷管付属の白色ビニールよう被覆脚線にはビニールテープが付着し、そして本件ツーリスト〇二四のリン内側、本件リード線を本件ツーリスト〇二四に接続した下板止めネジ、本件電気雷管付属の白色ビニールよう被覆脚線を本件中間スイッチに接続した端子ネジ及び本件リード線を本件積層乾電池に接続した陽極端子にはエチルシアノアクリレート系の接着剤がそれぞれ付着していることが認められる。

(六) 本件外装物等

前掲関係証拠によれば、本件爆発物はバッグに入れられており、そのバッグは、成島製鞄株式会社で製造されたスポーツバッグと同種の青色レーヨンデニム生地のスポーツバッグであったこと、本件スポーツバッグには、本件爆体容器である消火器が横倒しの状態で入れられていたほか、昭和五一年三月一日付及び同月二日付の日本経済新聞、同月七日付週刊誌「サンデー毎日」増大号が入れられていたことが認められる。

(七) まとめ

以上を総合すると、本件スポーツバッグに入れられていた本件爆発物は、ハツタ式一〇LP1型消火器を容器とし、その中に、塩素酸ナトリウム、硫黄、木炭粉の混合爆薬を入れ、起爆装置である脚線付六号瞬発電気雷管を装着した上、右混合爆薬の上部に砂糖を詰め、時限装置にはシチズントラベルウォッチ・コンパクトアラーム・ツーリスト〇二四を、電源には東芝製積層乾電池キングパワー〇〇六P〈U〉九Vを、中間スイッチには東芝製DS八〇一二をそれぞれ用い、これらを消火器の上部にビニールテープを使用して固定した上、リード線を使用して、右乾電池を電源とする電気回路を構成し、右ツーリスト〇二四のしゅ木が、予め設定された一定時刻に達して接点である金属片を叩いた瞬間、電気回路が通電して電気雷管が起爆し、更に混合爆薬が爆発する極めて巧妙かつ威力の大きい消火器爆弾であったことが認められる。

3  本件声明文の存在

(一) 本件声明文発見の経緯

《証拠省略》によれば、本件爆破事件発生から約三時間四〇分後の本件当日午後零時四〇分頃、札幌市中央区大通西三丁目六番地所在の北海道新聞本社政治経済部直通電話に外部から電話が掛かり、同部次長鶴岡昭男が対応したところ、若い男の声で、「大通駅コインロッカー三一番に声明文が入れてある。東アジア反日……戦線」という通告があったこと、鶴岡次長は、直ちに右通告内容をメモし、これを同社社会部次長茂木幹彦に手渡し、茂木次長において同社の記者を通告のあった同区大通西四丁目所在の札幌市交通局高速電車部南北線営業所大通駅(通称地下鉄大通駅)コインロッカー三一番に急行させたこと、一方北海道警察(以下「道警」という)本部警備部では、昭和五〇年七月に発生したいわゆる道警爆破事件の犯行声明文が、同駅コインロッカー一八番に入れられていた経験から、本件についての犯行声明文も、同駅コインロッカー内に格納されている可能性があるとして、同警備部外事課所属の中川亨警部補を同駅に赴かせ、本件当日午前九時五〇分頃から同駅構内のコインロッカー付近を巡回監視させていたこと、そして同日午後一時二〇分頃、上司の指示により同駅コインロッカー付近に赴いていた札幌中央警察署警備課所属の渋谷静弌警部補が、同所に来ていた北海道新聞社記者から前記通告電話があったことを聞知し、コインロッカー管理会社係員に依頼して右三一番コインロッカーを開錠して貰ったところ、同ロッカー内に買物袋に入った本件声明文があるのを発見し、これを押収したことが認められる。

(二) 本件声明文の形状

《証拠省略》によれば、本件声明文は、市販のコクヨレポート用紙二枚を台紙とし、これに、テープライターと片仮名文字盤及びアルファベット細文字盤を使用して、別紙のとおりの文章(横書二七行、片仮名六二六字、アラビア数字三字等)を打刻した幅九ミリメートルの黒色テープを貼り付けたもので、一一行目、一四行目、二二行目の各行頭余白部分に、ボールペンで手書きされた「」印記号が一個ずつ、計三個記入されていること、黒色テープを台紙に貼り付ける作業は、まずレポート用紙一枚の上に黒色テープを順次貼り付けていったところ、用紙に余白がなくなってきたため、もう一枚のレポート用紙を下にずらせて裏から重ね合わせて継ぎ足し、右用紙の上部をセロテープで表の用紙に固定するとともに、貼り付けた黒色テープの上からレポート用紙二枚の左右両側をセロテープで固定し、次いで継ぎ足して余白のできたレポート用紙の上に残りの黒色テープを更に順次貼り付けていったものであること、また、一一、一四、二二行の三行については、殊更にテープをやや右にずらせて冒頭に僅かな余白部分を作り、そこに「」印記号を手書きしていること、右打刻に使用されたテープライターは、ダイモジャパン・リミテッド社製の昭和四九年四月以前に製造されたM一五五〇、M一五七〇、M一五八〇、M一五八五、M一五九〇中のいずれかの機種であること、実験結果によると本件声明文をテープライターで打刻するには連続的に打って一時間五〇分を要することが認められる。

4  被告人逮捕に至る経緯

前掲関係証拠によれば、次の事実が認められる。すなわち、道警は、本件爆破事件発生当日、札幌中央警察署内に北海道庁庁舎内爆破事件特別捜査本部(以下「爆捜本部」という)を設置し、多数の捜査員を配置して捜査を開始し、情報の収集等に努めていたところ、昭和五一年七月二日、岐阜県下において、加藤三郎が警察官の職務質問を受けた際、所持していた除草剤等を遺留して逃走するという事件が発生し、岐阜県警察本部では、同月三日、同人を毒物及び劇物取締法違反の容疑で全国に指名手配するとともに、同人の立回り先として、札幌市東区《番地省略》所在の二宮恒男方に居住する被告人の行動確認を道警に依頼して来たため、道警では、同月二〇日から被告人の行動確認を開始したが、被告人の所在が不明であったため、被告人が戻って来た同年八月六日午後四時一〇分頃から再び被告人に対する行動確認の捜査を開始したこと、被告人は、同日午後四時二〇分頃、ずだ袋を自動車に積み込んで外出し、一旦帰宅したのち、同日午後八時二〇分頃、再びずだ袋、茶箱を自動車に積み込んで外出したほか、同月七日、八日にも、茶箱、ダンボール箱等を自動車に積み込んでは外出し、その所持に係る別紙投棄物一覧表記載の物件を、同表記載のとおり同市内の各所に投棄する行動に出たこと、被告人の行動確認に従事していた警察官は、連日被告人を追尾するなどして右投棄物の発見領置に努めたこと、被告人は、同月九日午前一一時頃、同市東区役所において、本籍地の多治見市に転出する届出をしたこと、爆捜本部は、押収した被告人の投棄物を検討した結果、被告人が爆発物取締罰則一条の目的をもって、爆発物の使用に供すべき消火器、セメント、乾電池、豆電球等を所持していたことは明らかであると判断し、同日午後、道外に退去することが予測された被告人に対する強制捜査を決定し、同月一〇日午前一〇時頃札幌簡易裁判所裁判官に対し、被告人に対する爆発物取締罰則違反による逮捕状を請求し、同日午後零時一五分右逮捕状の発付を得たこと、被告人は、同日午後一時一七分頃、前記二宮方を引き払って自動車で出発し、同日午後三時頃、苫小牧市西港のフェリーターミナルに到着したが、同日午後三時二一分、右フェリーターミナル近くの苫小牧署警備警察官派出所内において、爆捜本部からの指示を受けた追尾警察官によって、前記逮捕状の緊急執行により逮捕されるに至ったことが認められる。

二  被告人が本件爆発物を装置使用したこと

1  被告人には本件犯行の動機があったこと

《証拠省略》によれば、被告人は、昭和四七年三月国立岐阜大学教育学部数学科を卒業したものの、教職に就かず、同年七月初め頃には「コンミューン美濃加茂」に加わり、加藤三郎らとともに、太田竜著「辺境最深部に向って退却せよ」を輪読するなどしているうち、次第にアイヌ、朝鮮人問題等に関心を抱くようになり、昭和四八年四月初め頃、日本国家がアイヌをどのように支配しているか、アイヌの生活或いは意識はどのようになっているかを調査する目的で来道し、約二か月間滞在したのち、一旦多治見市の実家に戻ったが、日本帝国主義のアイヌモシリ占領に対して闘いを挑もうと考え、昭和四九年六月二九日、再び来道し、アイヌの住んでいる日高地方などに近い苫小牧市に居住し、店員などをして稼働する傍ら、アイヌの実態を調査したり、道庁等がアイヌモシリの占領機関乃至収奪機関であるという考えから、これらを攻撃対象として調査するとともに、爆発物の製造に必要な書籍等を入手して、その知識の習得に努めたこと、そして被告人は、札幌市には道庁等アイヌモシリ占領の中枢機関が多数存在するとの認識から、同市で具体的な爆弾闘争の準備を進めようと考え、昭和五〇年六月二八日同市に移住し、当初は同市東区北二六条東七丁目七七五番地所在の小幡荘(小幡俊彦経営)に居住したが、部屋が四・五畳一間で狭く、しかも隣室との境がベニヤ板一枚であるため物音が隣室に漏れ易く、爆弾を製造する場所としては適していないとして、同年一一月三日、前記二宮恒男方に転居したことが認められる。その上、被告人は、第一三回公判において、本件声明文を朗読した上、「この闘いは、アイヌモシリ植民地占領機関の中枢の一つである道庁を強力に攻撃した日帝本国人による反日闘争であったと考える。私は、断固支持するものである」と陳述したほか、第二四回公判において、「道庁爆破闘争は……反日の質を持った世界革命の大義に基づいた闘いであり、私は心から支持する。……日帝本国のアイヌモシリ占領機関の中枢である道庁を、今再び爆破せよ」と陳述し、更に、第五一回公判において、「一九七六年三月二日、東アジア反日武装戦線によって決行された道庁爆破闘争は、誰が実行したにせよ、日本と日本人、特に道民というアイヌモシリの侵略者、権力者たちのアイヌ、朝鮮人、中国人に対する歴史的、また、現在的な犯罪に対する正当な攻撃であって、報復であり、正義の闘いである。日本国家のアイヌモシリ占領機関の中枢である道庁、侵略者である道民の権力中枢である道庁などは何よりもまず最初に反日武装戦線によって攻撃されねばならない目標であり、破壊し尽されねばならない目標である」などと陳述して、前述した本件声明文の思想と共通する思想を表明し、また重ねて、第九二回公判において、「アイヌモシリを占領している日本の占領機関の中枢である道庁への攻撃は、誰がやったにしろ正義の闘いである。反日闘争勝利」と陳述しているのみならず、第一〇六回公判においても、弁護人の質問に対し、「……道庁爆破を支持するというのは、声明文にうたわれている内容(個々の点に違いはあるけれども)がそのとおりであると思えるからである。……アイヌや朝鮮人、或いはウイルタ(これはオロッコと呼ばれているけれども)が、道庁を攻撃しても、それは正義の闘いで当然のことなんだ。また声明文にうたわれているように、日本人が日本国家によるアイヌモシリ支配と占領を自己批判して、自分の責任として道庁を攻撃したとしても、それはまた正義で、当然の闘いになる……」と供述して、本件犯行の正当性を主張し、これを支持していることが認められる。

これらの事実を総合すれば、被告人には本件犯行を敢行する十分な動機があったというべきである。

2  被告人が本件声明文の作成に関与したこと

(一) 本件爆破事件と本件声明文との関係

(1) 本件声明文の内容

本件声明文の内容は別紙のとおりであり、その中には「道庁を爆破した」旨の記載こそないが、本件爆発物が装置された道庁に関する記述が含まれ、とりわけ「道庁を中心に群がるアイヌモシリ(北海道はその一部)の占領者どもは、第一級の帝国主義者、侵略者である」と記載して道庁職員等に対し非難攻撃を加えていることを考慮すると、本件声明文は本件爆破事件と密接な関連を有するものと認めるのが相当である。

(2) 本件声明文が地下鉄大通駅三一番コインロッカーに格納された時間

《証拠省略》によれば、前記地下鉄大通駅コインロッカーの開閉可能時間は午前六時から午後一一時までであるところ、渋谷静弌警部補が、本件爆破当日午後一時二〇分頃、本件声明文を捜すため、前記のとおり、コインロッカー管理会社係員に依頼して同駅の前記三一番コインロッカーを開錠して貰ったときには、同ロッカーの「超過枚数」の数字がその日の開閉を示す「0」を表示していたことが認められ、右事実によれば、右三一番ロッカーは、本件当日の午前六時以降に少なくとも一回は開閉されていること(しかし、本件声明文が右開閉の際、同ロッカーに格納されたかどうかは不明である。蓋し、仮に本件声明文がその前日或いはそれ以前の日に格納されていても、本件当日午前六時以降何らかの理由で開閉されれば、「超過枚数」は当日の開閉を示す「0」を表示するからである)が認められ、そして《証拠省略》によれば、中川亨警部補は、同日午前九時五〇分頃、同駅に到着して、直ちに右三一番ロッカーのあるコインロッカー群を検索した(七二個のロッカーのうち四一個が未使用であった)が、その際三一番ロッカーは使用中であったこと、そしてその後、同日午前一一時頃まで同駅構内のコインロッカー付近を巡回監視し、同時刻頃からは右三一番ロッカーのあるコインロッカー群を監視していたが、前記のとおり、渋谷静弌警部補が同日午後一時二〇分頃、コインロッカー管理会社係員に依頼して、右三一番ロッカーを開錠するまで、同ロッカーを開閉した者はいなかったことが認められる。右認定の事実によれば、本件声明文が右三一番ロッカーに格納されたのは、始期は不明であるが、本件当日の午前一一時頃までであると認めることができる。

(3) 本件声明文を作成して、これを地下鉄大通駅三一番コインロッカーに格納するまでの所要時間

本件声明文は、これをテープライターで打刻するだけでも一時間五〇分を要することは前記認定のとおりであり、この時間に、更にその文案の起草に要する時間、打刻したテープを台紙に貼付するなどして本件声明文を完成させるに必要な時間、そして完成した本件声明文を作成場所から地下鉄大通駅の三一番コインロッカーまで運搬し格納するまでに要する時間などを加えると、本件声明文の作成に取り掛かり、これを完成し、右三一番ロッカーに格納するまでには優に二時間を超える時間が必要であると認められる。

(4) 本件声明文が本件爆破事件の犯行声明文であり、本件爆発物を装置使用した者は本件声明文の作成にも関与していること

以上の(1)乃至(3)の事実に、更に本件声明文が「東アジア反日……戦線」と名乗る者からの通告電話によって発見されたこと及び本件爆破事件の発生時刻等を併せ考えると、本件声明文は、本件爆破事件に関する犯行声明文であると認めるのが相当であり、しかも、右声明文は、本件爆発物が爆発した昭和五一年三月二日午前九時二分頃以後にこれを起案し打刻して作成したのでは、時間的にみて到底同日午前一一時頃までに前記三一番ロッカーに格納することは不可能であること、すなわち、本件声明文は、本件犯行が同日午前九時頃に実行されることを予め知っていた者でなければ、これを同日午前一一時頃までに右三一番ロッカーに格納することは到底不可能であるといわざるを得ない。してみれば、本件爆発物を装置使用した者は、本件声明文の作成にも関与しているというべきである。

(二) 被告人と本件声明文との関係

被告人は、後述するとおり、本件爆発物を装置使用した者と認められるから、被告人が本件声明文の作成にも関与していることは前叙したところに徴し明らかというべきである。そして、右結論は、本件声明文に手書きされた「」印記号に関する筆跡鑑定の結果及び被告人が「」印記号を常用していた事実等によっても十分裏付けられている。

すなわち、本件声明文中の「」印記号の筆跡と被告人自筆の「」印記号の筆跡との同一性の有無については、金丸吉雄作成の鑑定報告書三通、馬路晴男作成の鑑定書、木村英一作成の鑑定書及び鑑定人長野勝弘作成の鑑定書があり、右各鑑定結果はいずれも同一の結論を導き出しているわけではないが、金丸鑑定は、「本件声明文中の「」印記号の筆跡と被告人自筆の「」印記号の筆跡とは同一人の筆跡としても矛盾しない」旨結論し、馬路鑑定は、「本件声明文中の「」印記号の筆跡と被告人自筆の「」印記号の筆跡とは同一人の筆跡とするのが妥当である」と結論しているのである。

もっともこの点につき、被告人及び弁護人は、金丸、馬路の各鑑定は、いわゆる伝統的筆跡鑑定方法によるものであって、鑑定人の主観に頼った客観性のないものであり、或いは「相似性(類似性)」と「相異性」のみを取り上げて「稀少性」「常同性」を無視(金丸鑑定)し、或いは「相似性(類似性)」のみを強調して「相異性」「稀少性」「常同性」を無視(馬路鑑定)しているから信用できない旨主張する。なるほど、いわゆる伝統的筆跡鑑定方法は、多分に鑑定人の経験と勘に頼るところがあり、ことの性質上、その証明力にはおのずから限界があることは否定できないが、しかし、このことから直ちに、この鑑定方法が非科学的で不合理であるということはできないのであって、筆跡鑑定におけるこれまでの経験の集積と専門的知識によって裏付けられたその方法と判断は、鑑定人の単なる主観に過ぎないものとは到底いえないところ、《証拠省略》によれば、金丸、馬路の両鑑定でも、「稀少性」「常同性」について、表現に違いこそあれ、これを、金丸鑑定においては、筆跡の総体的印象のほか、その造形性(線の構成・角度・距離間隔・曲直・長さ・太さ等)、線質(線の力・速さ・浮沈の変化等)、筆順(線と線の重なり方・呼応、線の変化、インクの付き方・減り方、終筆と始筆の呼応等)、リズム、情感(強弱、美、精密さ、豪快さ等)、格調等にあらわれる筆跡の個性として、また馬路鑑定においては、運筆、筆勢、筆順、線と線の角度、線相互の長短等のほか、数ある記号の中から画数の多い「」印記号が選ばれた意味、同記号の多使用自体、同記号の書かれた位置等に示されている筆者の癖としてとらえ、それぞれ十分検討していることが認められ、その鑑定結果は十分首肯するに値するものというべきである。しかも、比較すべき二つの文書の中にあらわれた筆跡の「相似点(類似点)と相異点」を検査し、それぞれに固有の特徴(筆癖)を調べ、その筆癖の「稀少性」「常同性」を検討すべきものとする木村、長野の各鑑定においてさえ、木村鑑定は「各資料に記載されている「」印記号は同一人によって書かれたとする積極的な結果は得られなかったが、いずれも類似の傾向は認められる」というのであり、また長野鑑定も「本件声明文中に手書きされている「」印記号と他の資料中に手書きされている「」印記号が同一人によって記載されたものであるかどうかは不明である」というだけで、いずれも、積極的に本件声明文の「」印記号の筆跡と被告人自筆の「」記号の筆跡とは異筆であると結論していないのである。

更に、《証拠省略》によれば、これまでに発生したいわゆる爆弾事件の中で、犯行声明文に「」印記号が記載されているのは、本件声明文のみであることが認められ、この点も本件声明文の特異性として指摘することができるところ、前記のとおり、被告人において投棄したことが認められる「北方ジャーナルNo.6」一冊、「日本古代史九九の謎」一冊、「天皇家はどこから来たか」一冊、「朝鮮人強制連行強制労働の記録」一冊、「甲・乙・丙種問題解答」一冊、「爆破」一冊、「紙(黒ボールペンで記載のあるもの)」一二枚、「新版犯罪鑑識11」一冊、「本の切取り(爆取弾圧と闘う救援会議)」一組に合計一六七個の、いずれも被告人において手書きしたことを自認する「」印記号の記載が認められ、更に、被告人を取り調べた警察官である証人桑原一夫の証言によれば、被告人は、昭和五一年一〇月一二日同警察官の取調べを受けてメモを作成した際、同警察官の面前ですらそのメモに「」印記号を記入したこと(なお、被告人は、当公判廷において右「」印記号は自分が書いたかどうか分らない旨弁解するが、右弁解は《証拠省略》に照らし信用できない)が認められ、これらを併せ考えると、被告人には「」印記号を使用する極めて強い習癖があるものと認められる。

以上によれば、本件声明文中の「」印記号は被告人において手書きした蓋然性が極めて大であるというべきである。

更に、前記のとおり、被告人において投棄したことが認められる紙片一枚(一九七五・六・一三付朝日ジャーナル)には、昭和四六年一二月から昭和五〇年五月までの間に発生した爆破事件に関し、爆弾グループの行動についての記載があるが、その犯行声明文の内容に関する記述の冒頭に丸印が付されており、被告人もその丸印を記載したことを認めている(第一〇八回公判)ことからも、被告人が爆弾闘争に関する声明文に異常な関心を示していたことが認められる。

以上の次第であるから、被告人が本件声明文を自ら打刻したかどうかはともかく、その作成に濃密に関与したことについては、疑いを容れる余地がないと判断される。

3  被告人が本件爆発物を製造したこと

(一) 被告人には本件爆発物の製造に必要な知識と技能があったこと

《証拠省略》によれば、本件爆発物は、火薬類、雷管、時限装置等の爆発物に関する基礎知識とこれが製造に必要な材料・工具さえあれば、誰でも容易にこれを製造し得ることが認められるところ、被告人が、押収してある甲・乙・丙種問題解答、火薬類取扱受験、爆破、本の切取り(栄養分析表)、中国軍事教本、受験必携危険物取扱者読本、毒物劇物取扱主任者試験問題及び紙(黒ボールペンで記載のあるもの一二枚)を所持し投棄したものであることは前記認定のとおりであり、そして、右各文献の記述内容、書き込み、汚損等の状態及び右紙一二枚の記載内容等によれば、被告人が爆発物製造に関する知識の習得に努めていたこと(被告人もそのことを認めている。第一〇三、一〇七、一一〇、一一二、一二一回公判)は明らかであり、更に、被告人が投棄し、押収された物件中には腹腹時計、薔薇の詩は含まれてはいなかったものの、前記のとおり、同じく爆弾製造の教本である(腹腹時計一頁参照)栄養分析表は発見押収されており、被告人は記述の極めて簡潔な右栄養分析表(いわゆるしゅ木式による時限装置の製造法について記述されている)でさえ入手し学習していたのであるから、爆弾闘争を目指していた被告人としては、より具体的かつ詳細に記述されている薔薇の詩(腹腹時計によれば、栄養分析表と薔薇の詩が昭和四九年三月一日以前に発行されていることは明らかである)、そしてその集大成ともいうべき腹腹時計を早期に入手していなかったとは到底考えられないというべきところ、被告人の供述(第一〇六、一〇九回公判)によっても、腹腹時計が発行された昭和四九年三月一日の直後頃には同書を既に入手していたことが認められる(他方、被告人は昭和五一年一月頃薔薇の詩、腹腹時計を入手したとも供述する(第一〇四、一〇七回公判)が、到底信用できないし、第一二一回公判において前の供述(第一〇六回公判における腹腹時計に関する部分)を補足している点も採るを得ない)から、被告人が具体的な爆弾闘争の準備を進めようと考えて札幌に出て来た昭和五〇年六月下旬頃には、腹腹時計及び薔薇の詩も十分学習していたものと認められること、そして腹腹時計及び薔薇の詩と同内容のそれには、爆発物の製造に必要な理論と技術及び製造道具等について詳細な記述がなされていること、被告人自身所持していたことを認めている(第一〇三乃至一〇六、一〇八、一一〇回公判)別紙投棄物一覧表記載の投棄物件中には、右腹腹時計及び薔薇の詩の記述に概ね副った爆発物の製造に必要な材料、容器、用具及び工作器具類等が多数含まれていること並びに被告人の判示学歴を併せ考えると、被告人は、本件爆発物を製造するのに必要な知識と技能を十分に保有していたものと認められる。

(二) 被告人が本件爆発物の爆薬を製造したこと

(1) 被告人が投棄した花柄ビニールシート及び花柄カーテンに塩素酸ナトリウムが付着していたこと

本件爆発物の爆薬が塩素酸ナトリウム、硫黄、木炭粉の混合爆薬であること、被告人が、押収してある花柄ビニールシート一枚及び花柄カーテン一枚を所持し投棄したことは、前記認定のとおりであるところ、《証拠省略》によれば、右花柄ビニールシート及び花柄カーテンには、硫黄、木炭粉、白色粉末ようのものが付着していたこと、しかし、右白色粉末ようのものは、微量であったため、X線回折が不可能であったことから、これを脱脂綿で拭き取り、更に蒸留水の中でほぐしてフィルターで濾過し、水に可溶な部分(水溶液)と水に不溶な部分とに分離した上、右水溶液について各種の検査を行ったところ、カルシウムイオンの反応はなく、塩素イオンの反応も疑陽性で、ただ塩素酸イオンの反応のみが明らかに陽性を示し、しかも炎色反応からはナトリウムが検出され、カリウムは検出されなかったこと、以上の検査結果によれば、右白色粉末ようの付着物は塩素酸ナトリウムであると推定することができ、そして、右推定を妨げるような事情は何らないことが認められる。

なお、被告人及び弁護人は、右の白色粉末ようの付着物を塩素酸ナトリウムであると推定することができるとした鑑定結果について、その原因は、(イ)警察官が塩素酸ナトリウムを付着していたかのように捏造したか、(ロ)被告人がマッチの頭薬をほぐしたものが付着したか、(ハ)被告人が花火の火薬をほぐしたものが付着したか、(ニ)漂白剤の原液が付着したかのいずれかである旨主張するので順次検討する。まず、右(イ)の点についてみるに、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンの入っていたダンボール箱を領置した証人三橋靖弘の証言(第一九、二〇回公判)、右ダンボール箱の内容物を確認した証人葛西正義の証言(第二二回公判)、被告人に対する行動確認の総括指揮をとっていた証人三宮隆司の証言(第九回公判)、被告人に対する逮捕状を請求した証人石原啓次の証言(第九一、九二回公判)、前記鑑定書を作成した証人山平真(第五四回公判)及び同本実(第五五回公判)の各証言等関係証拠を仔細に検討しても、警察官らによる捏造の疑いは全くないから、右(イ)の主張は理由がない。そこで、次に、右(ロ)及び(ハ)の点についてみるに、被告人は、理化学辞典等に「マッチや花火にも塩素酸ナトリウムが使用されている」旨記載されていると供述(第一〇五回公判)するが、《証拠省略》によれば、塩素酸ナトリウムは吸湿性や潮解性が強く、マッチの頭薬及び花火の原料として不適当であるため使用されておらず、マッチの頭薬及び花火の火薬中には塩素酸ナトリウムは含有されていないことが認められるから、右(ロ)、(ハ)の主張も全く理由がない。更に、右(ニ)の点について検討してみるに、《証拠省略》によれば、漂白剤の主成分である次亜塩素酸ナトリウムは、塩化ナトリウムと塩素酸ナトリウムに分解する性質があるので、標白剤が付着した場合、理論的には、それが化学変化を起こし、塩素酸ナトリウムが検出される可能性はあり得るが、しかし、カーペット地及びカーテン地に漂白剤を使用した場合、塩素酸反応が明瞭な陽性を示すのは、漂白剤の原液をそのまま直接使用した場合だけであり、しかも、この場合塩素イオンも顕著に陽性の反応を示すこと、ところで漂白剤の原液をそのまま直接使用することは通常の用法としてはあり得ないが、もし何らかの理由で漂白剤の原液をそのまま直接使用したか、或いはその原液が付着したとすれば、カーペット地及びカーテン地の色柄が褪色し、生地が劣化してしまうことが認められるところ、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンには、そのような褪色や劣化のないことが認められる。そうすると、右花柄ビニールシート及び花柄カーテンに付着していた白色粉末ようのものは漂白剤とは到底認められないから、右(ニ)の主張も理由がない。してみれば、前記白色粉末ようの付着物は塩素酸ナトリウムであると認めるのが相当である。

(2) 被告人が本件爆発物の爆薬と同一成分の混合爆薬を製造したこと

被告人が腹腹時計及び薔薇の詩を本件爆破事件以前から所持していたことは前記認定のとおりであり、そして《証拠省略》によれば、被告人は、右腹腹時計及び薔薇の詩を学習して爆発物の製造を手掛けていたことが認められるところ、腹腹時計及び薔薇の詩には、塩素酸ナトリウムを主剤とする爆薬について、塩素酸ナトリウム、木炭、硫黄の混合比は七五パーセント、一五パーセント、一〇パーセントの重量比であり、その製造法は、これらをそれぞれ個別に粉砕しふるいに掛けた上、まず木炭と硫黄を混合し、最後に塩素酸ナトリウムを加えて混合する旨記載されていること、また腹腹時計には、(イ)塩素酸ナトリウムを使った火薬は、非常に早く湿気を吸い、使いものにならなくなり易いので、保管に注意する、(ロ)火薬及び爆弾は、できるだけ使用直前に作り、長期保存はしない、(ハ)現在(昭和四九年三月一日腹腹時計発行当時)最も入手が簡単な材料は、除草剤(塩素酸ナトリウム―NaClO3)で商品名=クサトール、クロレートソーダ、デゾレートである旨記載されていること、そして薔薇の詩には、除草剤クサトール等には塩素酸ナトリウムが九八パーセント以上含まれている旨記載されていることが認められる。また、《証拠省略》によれば、昭和五〇年当時市販されていた高濃度塩素酸塩除草剤(商品名=デゾレート、クロレートソーダ、クサトール、ダイソレート)には塩素酸ナトリウムが九八・五パーセント以上含まれ、有効期間は五年間とされていたことが認められ、更に《証拠省略》によれば、被告人が既に硫黄及び木炭を別々に右サンヨーミキサーに掛けるなどして粉砕し、微粉末にする作業を行っていたことが認められる。もっとも、被告人は、右作業は本件爆破事件後実験的に行ったに過ぎない旨供述する(第一〇三回公判)が、右供述は、後述するように、検察官から抜き差しならぬ不利な証拠を突き付けられた被告人が或いは時間をずらし、或いは根拠のない事実を構築して巧みにその証拠の証明力を減殺しようと企図してなしたものというほかなく到底首肯し得るものではない。以上に鑑みれば、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンから検出された、本件爆薬の組成物と同一成分の塩素酸ナトリウム、硫黄、木炭は、いずれも爆薬の製造の過程で付着したものと認めるのが最も合理的である。被告人は、爆弾闘争を目指し、爆薬の材料としての木炭、硫黄を既に入手していたことは認めながら(第一〇三、一〇四回公判)、除草剤についてはその入手を否認している(第一〇三回公判)が、木炭、硫黄の保管かつ防湿用に茶箱を入手したとするには、投棄された木炭、硫黄の分量に比し、茶箱の数が多過ぎる(被告人の投棄した茶箱が四個押収されていることは、前記認定のとおりである。なお、そのうちの茶箱二個については、外観上からは使用された形跡が窺われないが、厳重に密封包装したものをただ格納したのであれば、使用の痕跡は残らないこともある)といわざるを得ない上、右各茶箱には後述するように被告人が目張りをしていること、被告人の投棄物中に吸湿剤であるシリカゲルが含まれていたほか、被告人居室からもシリカゲル微量が検出されたこと等に鑑みると、他にも防湿を必要とした物件があったと推認せざるを得ず、これに前記認定のとおり、被告人が硫黄や木炭を粉砕して微粉末にするなど爆弾完成の直前の段階である爆薬製造に出ていたこと、塩素酸ナトリウムを未だ入手していない段階で早々と硫黄や木炭を微粉末にする必要はないこと、現に前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンから塩素酸ナトリウムが検出されていることを併せ考えると、被告人は、除草剤を入手していたものと認めるのが相当である。

また、弁護人は、塩素酸ナトリウムが、被告人居室から全く検出されていない上、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテン以外の被告人の投棄物からも、これが発見・検出されていない点を指摘するとともに、被告人が混合爆薬を製造したとするには、硫黄、木炭の量に比し、塩素酸ナトリウムの存在を推定させるという白色粉末ようのものが微量に過ぎる旨主張する。しかしながら、《証拠省略》によれば、なるほど爆薬の組成物と関連性があるとして二宮方の被告人居室から押収されたものは、僅か、砂糖(一〇・一五グラム)一袋、シリカゲル微量、微細な木炭末数個及びアルミ金属削片一個、微細な木炭末三個及び木炭末二個に過ぎず、塩素酸ナトリウムは全く検出も押収もされていないが、他方被告人居室からは塩素酸ナトリウムだけでなく、硫黄もまた全く検出も押収もされていないことが認められるのであって、被告人の投棄物中に多量の硫黄や木炭があったことを考えると、被告人居室から塩素酸ナトリウム及び硫黄が全く検出されなかったのは、まさに被告人が、腹腹時計にいう「居室は常に整理し、清潔を保つこと、不必要なもの、在ることのまずいものは他に移すか、廃業、焼却すること」を身をもって実践し、居室を清掃するなどして、そこに爆薬組成物の痕跡を残さないようにしていた証左ということができ、このことは被告人居室から押収された木炭末がごく微量であったことからも十分裏付けられるといえる。してみれば、被告人が塩素酸ナトリウムを未だ入手していなかったからこそそれだけが被告人居室から検出されなかったかのような弁護人の右指摘は当たらない。

また《証拠省略》によれば、爆薬の組成物である塩素酸ナトリウムは通常除草剤が利用されているところ、除草剤は、昭和四九年八月三〇日のいわゆる三菱重工爆破事件以後、同じ爆薬の組成物である木炭、硫黄に比べ、これを入手することが困難になっていることが認められ、従って、爆弾闘争を実現するために除草剤を入手した者は、その保管、取扱いに細心の注意を払うのはもとより、混合爆薬を製造するに際しても、少しの消失を出さないようにこれを使用するものと考えられ、貴重品である除草剤を軽々に投棄するなどということは到底あり得ないものといわざるを得ないから、除草剤の主成分である塩素酸ナトリウムが、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテン以外の被告人投棄物から発見・検出されていないということは、被告人が、入手した除草剤のすべてを混合爆薬の製造のために費消したか、或いは将来の入手が困難なことを考慮し、混合爆薬の製造に費消した残余の除草剤を他に秘匿したかのいずれかであると考えるのがむしろ自然というべきである。してみれば、被告人の投棄物件の中に塩素酸ナトリウム(除草剤)がなく、容易に入手可能な硫黄や木炭だけが多量にあったとしても何ら不思議でなく、弁護人の右指摘はこの点においても採るを得ない。

また《証拠省略》によれば、押収してある前記花柄ビニールシートは、二宮恒男、トミ夫妻所有のもので、もともと二宮方二階の東側押入れ上段に敷かれていたものを、被告人が勝手に切断して利用した上、未発見の残余のシート部分を含めて処分したものであることが認められ、このように、未発見の右シート部分が所有者に無断で処分されていることに鑑みると、右シート部分も右押収物と同様、或いはそれ以上に残して置いてはまずいものであったと推認せざるを得ない。してみれば、花柄ビニールシートの一部に過ぎない右押収物に塩素酸ナトリウムと認められる粉末ようのものがごく微量しか付着していなかったからといって、この一事をもって、被告人が塩素酸ナトリウムを主成分とする混合爆薬を製造しなかったとすることができないことは多言を要しない。弁護人のこの点の主張も採用し得ない。

以上の次第であるから、被告人は、硫黄や木炭だけでなく除草剤も入手して、混合爆薬を製造したものと認めるのが相当である。

(3) 被告人が製造した混合爆薬が本件爆発物に使用されたと推認されること

ところで、被告人において混合爆薬を製造したということは、爆弾製造が完成直前の状態にあったことを意味するところ、右爆薬及びこれを詰めたと思われる加工された爆体容器(後記のとおり消火器と思われる)が投棄物件が含めて被告人の周辺に残存していないことは、これらが本件爆発物として使用されたことを強く推認させるものであり、このことは、ひいては被告人と本件爆発物を装置使用した犯人とを結び付ける事実として重要な価値を持つものといえる。

(三) 被告人が本件に使用された消火器と同種の消火器を所持していたこと

本件爆体容器には、株式会社初田製作所製のハツタ式一〇LP1型消火器が用いられていたこと、被告人が右と同型の消火器二本を所持していたこと、被告人が所持していた腹腹時計には、火薬及び爆弾は、できるだけ使用直前に作り、長期保存しない旨記載されていることは、前記認定のとおりである。

また、《証拠省略》によれば、腹腹時計には、爆体容器について、材質としては鋼鉄が最上であり、形状としてはボンベ状が理想的で、火薬を詰める口としてはネジ状がよく、万一のときに備えて、消火器等を別に用意しておく旨記載されていること、ハツタ式一〇LP1型消火器は、シームレス加工と呼ばれる工法により製造され、胴体部分が継ぎ目のない鉄の一枚板になっており、詰め口もネジ状になっていて、強い内気圧に耐え、かつて手製爆弾の爆体容器として使用されたこともあること、被告人が所持していた前記消火器二本のうち、一本は、何ら加工が施されておらず、本来の消火機能を有しているが、残りの消火器一本は、薬剤が抜き取られ、炭酸ガスがボンベから放出されているけれども、操作レバー、提げレバー、炭酸ガスボンベ、排圧管、送粉管等の部品を取り外したり、本体部分に起爆装置の脚線等を通すための穴を開けるなど加工した形跡はないこと、そして右の消火器二本は、いずれも被告人が爆体容器として利用するため昭和五〇年一二月末、北海道大学庁舎内から窃取したものであることが認められる。

ところで、被告人が本件爆体容器と同型の消火器を爆体容器として利用する目的で二本も窃取し所持していたということは、被告人が他にも同型の消火器を入手して所持していたことを推認させるところ、被告人は、前記(二)のとおり、爆薬を既に製造していたものと認められるから、前叙したように、爆弾製造は完成直前の状態にあったものというべく、従って、その際、爆薬を入れる容器、すなわち爆体容器である消火器(これが消火器であったことは、被告人が前叙のように消火器を爆体容器として利用するために窃取していたことからも明らかである)も当然利用可能な状態に加工され準備されていたものというべきところ、被告人が所持していた消火器二本は、前記のとおり、未だ爆体容器として利用可能な状態にまで加工されていない(もっとも、腹腹時計の前記記載からすると、本来の機能を有する消火器一本は、万一のときに備えて消火用のために準備したものと推認される)ことが認められるのである。そうすると、被告人は、右の消火器二本以外に、爆体容器として利用可能な状態にまで加工した消火器を所持していたものと認めるのが相当であるところ、そのような消火器が残存していないことは、これがまさに本件爆体容器として利用されたことを強く推認させるというべきである。

(四) 被告人が本件爆発物に使用されたビニールテープと同一銘柄と推定されるビニールテープを所持していたこと

本件爆発物の破片として押収された消火器のバルブケース、ふたメネジ及びホース締付金具並びに電気雷管付属の白色ビニールよう被覆脚線には、前記のとおり、ビニールテープが付着していたことが認められるところ、《証拠省略》によれば、被告人が所持し投棄した前記茶箱四個にもビニールテープで目張りがしてあり、本件爆発物の破片として押収された前記六点に付着していたビニールテープと右各茶箱の目張りに使われたビニールテープを赤外線吸収スペクトルにより検査し、顕微鏡観察を行ったところ、両者は、相互に類似し、いずれも同一銘柄のビニールテープであると推定し得ることが認められる。ところで、被告人は、昭和五〇年一〇月、一一月頃に右茶箱四個を入手し(第一〇三回公判)、これにビニールテープで目張りをした(第一〇四、一〇八回公判)旨自認している。

そうすると、被告人が、本件爆発物に使用されたビニールテープと同一銘柄と推定されるビニールテープを所持し使用していたということは、被告人と本件爆発物を製造した者とを結び付ける有力な情況証拠の一つであるということができる。すなわち、被告人が茶箱に目張りをしたと同一の銘柄のビニールテープを使用して本件爆発物に細工をしたと推論することも十分可能であるというべきである。

(五) 被告人が本件爆発物に使用された接着剤と同種類の接着剤及びこれが付着しているドライバーを所持していたこと

本件爆発物の破片として押収されたツーリスト〇二四のリン内側及び下板止めネジ、積層乾電池の陽極端子並びに中間スイッチの端子ネジには、前記のとおり、エチルシアノアクリレート系の接着剤が付着していたことが認められるところ、前記のとおり、被告人は右接着剤と同種類のエチルシアノアクリレート系の接着剤である瞬間接着剤(セメダイン三〇〇〇ゴールド)二本を所持していたばかりでなく、《証拠省略》、押収してある時計部品一個、ドライバー(柄黄色)一本、瞬間接着剤(セメダイン三〇〇〇ゴールド)二本及びネジ一個によれば、被告人が所持し投棄した右ドライバーの先端部にも本件爆発物の破片として押収された前記四点と同様に、右瞬間接着剤(セメダイン三〇〇〇ゴールド)と同種類のエチルシアノアクリレート系の接着剤が付着しており、そして右ドライバーはツーリスト〇二四の前記下板止めネジに使用可能であることが認められる。

このように、被告人が、本件爆発物に使用された接着剤と同種類の接着剤を所持していただけでなく、本件爆発物の破片として押収されたツーリスト〇二四の下板止めネジと被告人が所持し右ネジに使用可能なドライバーの先端部の両方に同種類の接着剤が付着していたということは、被告人が本件に全く無関係であるとすれば、通常あり得ないことといわなければならないから、このことは、被告人が本件爆発物を製造した者であることを示す有力な情況証拠の一つであるということができる。すなわち、被告人が右ドライバーと瞬間接着剤(セメダイン三〇〇〇ゴールド)を使用して、ツーリスト〇二四の下板止めネジに本件リード線を接続し、かつ固着するなどして本件爆発物を製造したと推認しても何ら不合理ではないというべきである。

(六) 被告人が本件爆発物の時限接点に利用できる鉄板片を簡便ナイフの刃保持部から切り取っていたこと

本件爆発物の時限装置に使用されたツーリスト〇二四のリン内側には、前記のとおり、金属片が時限接点として接着剤の上に貼付されていたことが認められるところ、被告人が、押収してある金切はさみ一丁、折たたみ式簡便ナイフ(銀色刃なし)一個、折たたみ式簡便ナイフ(銀色刃なしビニールケース入)一個及び鉄板片一個を所持しこれを投棄して警察官に押収されたことは、前記認定のとおりである。

そして、《証拠省略》、押収してある時計裏ぶた片(リン)三個(鉛色の金属片を除いたもの)、金切はさみ一丁、折たたみ式簡便ナイフ(銀色刃なし)一個、折たたみ式簡便ナイフ(銀色刃なしビニールケース入)一個及び鉄板片一個によれば、右鉄板片は、元来右簡便ナイフ(ビニールケース入)と一体となっていた刃の保持部の一部であること、右簡便ナイフの刃の保持部は、右金切はさみによって根元から切断され、これを更に右金切はさみによって縦長に二つに切断され、その一部(峰の部分)が右鉄板片であること、右鉄板片は長さ約四センチメートル、幅約五ミリメートルの大きさであること、右鉄板片は、二つ折りにされた刃の保持部の峰の部分であるから、右鉄板片から切り離された、保持部の刃をはさむ部分は、長さ約四センチメートル、幅約五ミリメートルの鉄板片二枚に分れるが、その鉄板片二枚については、被告人の投棄物等からも発見押収されていないこと、本件時限装置の時限接点に使用された金属片は、本件爆破現場から発見されていないが、右簡便ナイフの刃の保持部の鉄板片も通電性の固定接点として利用可能であること、しかもリンがしゅ木によって叩かれる接点部分は、五×五ミリメートルの大きさがあれば十分であるところ、本件ツーリスト〇二四のリン内側に付着していた接着剤は、幅が一乃至五ミリメートル、長さが三乃至四センチメートルの広がりを有し未発見の前記鉄板片(簡便ナイフの刃保持部のうち刃をはさむ部分で、切り離されたもの)の大きさと符合していることが認められる。

ところで、被告人は、弁護人から、右簡便ナイフがどうして切り取られているのかと質問を受けたのに対し、「これはいいません」と供述し(第一〇六回公判)、更に、検察官から同様の質問を受けたのに対しても、具体的な供述を拒否し、ただ前記金切はさみ一丁、簡便ナイフ二個及び鉄板片(峰の部分)一個についてその所持を認めた(第一〇八回公判)に過ぎない。被告人がこのように敢て供述を拒んだのは、簡便ナイフから切り取った刃保持部のうち刃をはさむ部分である未発見の鉄板片二枚の行方について合理的に説明をなし得ないからであると思われる。すなわち、右鉄板片を投棄したといってみても、それなら何故、その残部であることの痕跡を残している右簡便ナイフ一個及び鉄板片一個を同時に投棄しないで手元に残留させていたのか、その理由を合理的に説明し得ないからである。

以上に鑑みれば、被告人が未発見の右鉄板片を本件時限装置の時限接点に利用したと推認しても、決して不合理ではないというべきである。

なお、被告人及び弁護人は、被告人が手掛けていた時限装置は、腹腹時計に紹介されている上げバネ式のそれであって、本件のようなしゅ木式のそれではないところ、腹腹時計にはしゅ木式について記載がないため、被告人としても、しゅ木式による時限装置の製造法を知らなかったのであるから、時限装置をしゅ木式とする本件爆発物は被告人が製造したものではない旨主張する。

なるほど、腹腹時計には、時限装置について上げバネ式の製造法が記載されているだけで、しゅ木式の製造法が記載されていないことは確かであるが、しかし、被告人が所持していた前記栄養分析表には、しゅ木式による時限装置の製造法が記述されており、前叙のとおり、被告人も右栄養分析表を十分学習していたことが認められるから、被告人がしゅ木式による時限装置の製造法を知らなかったとはいえないところ、本件においては、ツーリスト〇二四の下板乃至上げバネと文字板受の間隔が極めて狭いため、被告人が工作のしにくい上げバネ式を避け、工作がし易く精度も高いと思われるしゅ木式による時限装置の製造法を選択したとしても何ら不思議ではなく、そしてこれが被告人の知識・技能と矛盾するものでないことも明らかであるから、弁護人らの右主張は採るを得ない。

(七) 被告人が所持していたリン止め用マイナスネジ一本は、本件時限装置に使用された旅行用時計のネジであること

《証拠省略》、押収してある下板止めネジ付時計下板一個、リン柱にねじ込まれたネジ二個及び下板止めネジ一個によれば、本件爆発物の時限装置に利用されたツーリスト〇二四には、ケース止めネジ二本及び下板止めネジ三本(いずれもプラスマイナス兼用ネジ)、リン止めネジ二本(いずれもマイナスネジ)の計七本のネジが使用されているのに、本件爆破現場からは、リン止めとして使用された二本及び下板止めとして使用された二本の計四本のプラスマイナス兼用ネジが発見されただけで、残りのプラスマイナス兼用ネジ一本及びマイナスネジ二本については発見されていないこと、右ケース止め又は下板止め用のプラスマイナス兼用ネジと右リン止め用のマイナスネジは、相互に転用が可能であるところ、本件ツーリスト〇二四は、ケースが取り外され、本来のマイナスネジの代りにプラスマイナス兼用ネジ二本がリン止めのネジとして使用されていたこと、本件時限装置を製造するためには、まずケース止めネジ二本(いずれもプラスマイナス兼用ネジ)を外してケースを取り外し、次いでリン止めネジ二本(いずれもマイナスネジ)を外すなどしてリンを取り外した上、所要の工作を施すことになるが、下板止めネジ三本(いずれもプラスマイナス兼用ネジ)については時限装置を製造する上で取り外す必要がないこと、すなわち、下板止めネジのうちの一本については、電源の一方の極に通ずるリード線をこれに接続するため細工を必要とするが、そのためにネジを取り外してしまう必要はなく、ただネジを緩めた状態でリード線の端をネジ頭の下方に巻き付けた上、締め戻すことで細工は完了する(現に本件爆破現場から発見されたリード線付の下板止めネジにはプラスマイナス兼用ネジが使用されている)こと、他の下板止めネジ二本(未発見のものを含む)については、いずれもこれが時限装置を作る上で工作不要の箇所であるから本来の下板止め用プラスマイナス兼用ネジがねじ込まれたままの状態であると認めるのが相当である(現に本件爆破現場から発見押収されたもう一本の下板止めネジ(時計下板に付いたままのもの)もプラスマイナス兼用ネジが使用されている)こと、そして時計会社が時計を製造する過程でケース止め又は下板止め用のプラスマイナス兼用ネジが、本来のリン止め用マイナスネジの代りに、誤ってリン止めとしてリン柱にねじ込まれることは、その製造工程上あり得ないことが認められる。

右認定の事実によれば、本件ツーリスト〇二四を本件爆発物の時限装置にするべく工作した者が、誤って或いは何らかの事情により、本来のリン止め用のマイナスネジの代りにケース止め用のプラスマイナス兼用ネジをリン止めとして使用したものと認められ、従って、その者の手元には、リン止め用マイナスネジ二本が残されているはずであるというべきところ、《証拠省略》によれば、道警本部警備部外事課所属の里幸夫警部が昭和五一年八月一〇日午後四時一八分から同日午後六時一〇分までの間、前記二宮恒男方二階の被告人居室において、令状に基づき検証及び捜索差押を実施した際、遺留されていた被告人所有の布団袋内からマイナスネジ一本を発見し押収したこと、右マイナスネジは、リズム時計工業株式会社製の小型置目覚時計(旅行用時計はその一つ)のリン止めに使用されるネジであり、ツーリスト〇二四(緑色文字板)のリン止めネジと同一規格のものであること、本件爆発物の時限装置に使用されたツーリスト〇二四(緑色文字板)は、リズム時計工業株式会社益子工場において、昭和五〇年四月、五月、一二月に製造された合計四、〇〇三個のうちの一個であり、札幌支店には、昭和五〇年一一月二八日に五〇個、昭和五一年一月二一日に五〇個が直送されているに過ぎないこと、被告人は、昭和五〇年六月二八日から札幌市内に居住しており、ツーリスト〇二四を同市内において入手することも可能であったことが認められる。

以上認定の事実に加えて、被告人には、前記3の(一)乃至(六)でみてきたように不利な状況が存在することを考えると、被告人において、前記リン止め用マイナスネジが被告人居室で発見押収されたことについて合理的な説明をなし得ない限り、右ネジは、本件爆発物の時限装置に利用されたツーリスト〇二四のリン止めネジのうちの一本であるというほかはなく、そうすれば、被告人こそ本件爆発物を製造した者であると認めざるを得ない。

そこで、検討してみるに、被告人は、右リン止め用マイナスネジが被告人居室で発見押収されたことについて、(イ)警察官が発見押収したかのように捏造したか、(ロ)時限装置に利用する目的で入手し、既にその工作をしていたコンパクトアラーム・スピネット(以下「スピネット」という)のリン止め用マイナスネジが布団袋の中に紛れ込んだかのいずれかである旨弁解する。

そこで、まず、右(イ)の点についてみるに、検証及び捜索差押の際、遺留されていた被告人所有の布団袋内からリン止め用マイナスネジ一本を発見押収したと供述する証人里幸夫の証言(第四六、四七回公判)には何ら不自然不合理な点はなく、十分これを信用することができるから、右(イ)の点に関する被告人の弁解には全く理由がない。

次に、右(ロ)の点について検討するに、被告人は、押収されたものは、スピネットのリン止め用マイナスネジである旨弁解しながら、そのスピネットの購入先について供述を拒否し(第一〇三、一〇七回公判)、またその購入時期についても昭和五〇年七月一九日のいわゆる道警爆破事件後と述べるだけで具体的な時期を明らかにしようとしない(第一〇七回公判)。しかし、当公判廷において、いわゆる「でっち上げ」を主張し、多弁に防禦を展開している被告人としては、真実、購入した時計がスピネットというのであれば、積極的にその購入先や購入した際の相手方の性別、年齢、特徴等を供述するとともにこれを裏付ける証拠を提出して自己の供述の真実性を明らかにし、自己に対する疑いを一つでも晴らしていくべきであるにもかかわらず、遂にこれを明らかにしようとしなかったのである。被告人の態度は極めて不可解というほかはない。もっとも、被告人は、その購入先を供述すれば、検察官がその者に働き掛けて自分の供述を潰してしまう旨弁解している(第一〇七回公判)が、これがためにするものであることは多言を要しないところである。また被告人は、昭和五一年七月二二日札幌市内のゴミステーションに、既に時限装置として工作をしていたそのスピネットを投棄した旨供述する(第一〇五回公判)が、これも検察官の質問に対してはその場所の特定を拒否し(第一〇七回公判)、弁護人の質問に対してさえ同市内の北二四条の方のゴミステーションであると供述する(第一〇九回公判)に過ぎず、この態度も不可解であるというべきであるが、そもそも、最も疑いを掛けられ易い、本件爆体容器と全く同種類の消火器並びに本件爆薬の成分をなしている硫黄や木炭と同じ多量の硫黄や木炭等については、前記のとおり、同年八月六、七日までこれを手元に置いておきながら、仮に既に時限装置として工作していたとしても元に復すれば(これが簡単に元に復し得ることは、前叙した工作の内容、程度に照らし明らかである)単に旅行用時計に過ぎず、怪しまれることの少ないスピネットについては、これをいち早く同年七月二二日に投棄したとする右供述自体、全く不自然で事理に合わず措信することができないというべきである。そして、被告人が、前記ネジについて、これをスピネットのリン止め用マイナスネジではないかと弁解するようになったのは、第一〇三回公判に至ってからであり、無実を主張する被告人としては、その言葉とは裏腹に全く真摯さに欠けているのみならず、右公判段階においては、既にツーリスト〇二四とスピネットのリン止め用マイナスネジは同一規格であることが明らかにされていた(証人中島冨士雄(第四八回公判)及び同吉村新(第四九回公判)の各証言による)のであるから、被告人は、これらの証拠と矛盾しないように計算しつつ、巧みに虚実を取り混ぜながら自己に都合のよい筋書を作り上げようとしたものというほかはなく、被告人の弁解は到底首肯し得るものではない。そもそも、被告人が弁解するように、もし被告人がスピネットを所持し、既に時限装置として工作を施していたとすれば、被告人も本件ツーリスト〇二四に工作した者と同様、同じ箇所に同じネジの付け間違いをしていたということになるが、それは余りにも偶然過ぎるというほかはなく、到底余人をして納得させ得るものではない。被告人の弁解はこの点からも肯認することができないというべきである。してみれば、右(ロ)の点に関する被告人の弁解も採るを得ない。

以上のとおり、被告人の弁解にはいずれも合理的な理由がないから、被告人居室で発見押収されたリン止め用マイナスネジは本件ツーリスト〇二四のリン止め用マイナスネジと認めるのが相当である。

(八) その他

被告人及び弁護人は、電気雷管は、使用目的が極めて特異で、それを使用する事業所等が限定され、しかもその購入、管理等の法的規制が厳しく、一般人が入手することは極めて困難であり、被告人は、電気雷管を入手していないし、また爆発物の製造に必要な乳鉢、乳棒、秤、ドリルも入手していない旨主張し、結局被告人は本件爆発物を製造していない旨強調する。

しかし、一般的には、電気雷管を入手することが困難であるとしても、本件では現実に電気雷管が使われているから、その入手方法はともかく、一応電気雷管を入手することは可能であった(被告人も同様に入手することが可能であった)ということができるし、また爆発物の製造に必要な乳鉢、乳棒、秤、ドリル(腹腹時計一五、二一、三二頁。薔薇の詩五頁。各参照)が被告人の投棄物等から発見押収されていないからといって、被告人が入手していなかったとはいえず、前記3の(一)乃至(七)の諸点に鑑みると、被告人は本件爆発物の製造に必要(他に代用品があれば格別)な乳鉢、乳棒、秤、ドリル(ドリルについては後述するとおりである)を入手し、そして他に処分するなどしたと推認しても、必ずしも不合理ではないというべきである。従って、弁護人らの右主張は理由がない。

(九) まとめ

以上を総合勘案すると、被告人が本件爆発物を製造したことは合理的な疑いを容れないというべきであり、そしてこのことは、他面被告人が本件爆発物を装置使用した犯人であることを有力に物語っているものということができる。

4  被告人が本件爆発物を装置使用した犯人であること

(一) 本件爆発物を装置した犯人の特定

(1) 本件爆発物の装置

《証拠省略》によれば、道庁内の清掃に従事していた向井秀子及び森木ミヨノは、本件爆破事件発生当日の午前八時五分頃から午前八時一〇頃までの間、スポーツバッグ類が本件爆心地付近になかったことを確認していること、道庁職員の真田高司は、同日午前八時四〇分前後頃(三五分から四五分までの幅のある時間)、道庁一階エレベーターホールにおいて、押収してあるスポーツバッグに形状、色具合も酷似しているスポーツバッグ一個が右爆心地に置かれているのを目撃していること、また、本件爆破事件に遭遇し重傷を負った道庁職員の石沢徳四郎は、本件爆発直前、右エレベーターホールにおいて、押収してあるスポーツバッグに形状の類似したスポーツバッグ一個が右爆心地に置かれているのを目撃していることがそれぞれ認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。また、本件爆発物が、押収してあるスポーツバッグと同種のスポーツバッグに収納されていたことは、前記認定のとおりである。

以上認定の事実によれば、真田高司及び石沢徳四郎の目撃したスポーツバッグは、その時間的、場所的関係からいって同一物と認められ、そして右スポーツバッグに収納されていた本件爆発物が本件爆心地に装置された時間は、最大限に幅を持たせてみても、本件当日の午前八時五分頃から午前八時四五分頃までの間であると認めるのが相当である。

ところで、被告人及び弁護人は、証人大原公子の、本件当日午前八時三〇分頃から午前八時四五分過ぎ頃までに道庁一階エレベーターホールを二、三回往復したが、爆心地にスポーツバッグがあったかどうか気が付かなかったという証言(第九五回公判)をとらえて、本件当日の午前八時四五分過ぎ頃までは、スポーツバッグは本件爆心地に置かれていなかったと認められる旨主張する。しかし、爆心地にスポーツバッグがあったのなら、同証人において必ずこれに気付くはずであるということを前提にした弁護人らの右主張は、爆心地にスポーツバッグがあったとしても、必ずしも同証人がこれに気付くとは限らないという命題の前に破綻せざるを得ないところ、現に、人通りの多い時間帯に、人通りの多い爆心地に装置されていた本件スポーツバッグについて、捜査官による広範囲にわたる目撃者捜しが行われたにもかかわらず、その目撃者は極めて少数であったことに鑑みても、弁護人らの右主張が理由のないものであることは明らかであるといわざるを得ない。従って、弁護人らの右主張は採るを得ない。

また、被告人及び弁護人は、仮に真田高司が爆心地に置かれていたスポーツバッグを目撃したとしても、そのスポーツバッグと石沢徳四郎の目撃したスポーツバッグは別物であると認められるから、本件爆発物を収納したスポーツバッグが装置された時間は本件当日の午前八時四五分以後である旨主張する。なるほど、右真田と石沢の供述間には、(イ)スポーツバッグの色具合、(ロ)スポーツバッグの形状と把手の状態、(ハ)スポーツバッグに新聞紙が差し込まれていたか否かについて違いがあるが、右(イ)、(ロ)の点については、目撃者とスポーツバッグとの位置関係、角度、距離、明暗・反射の度合、目撃者の同種スポーツバッグに対する既知体験の有無等により、記銘に差異が生じ得ることであり、また右(ハ)の点については、目撃者の観察力及び記憶力の違いから、目撃したスポーツバッグの特徴のうち何を的確に記銘し、その印象を正確に保持するかについて差異が生じ得るし、なお真田は、講習会で使うテキスト一五冊を重ねて束にしたものを手に提げていて、これが右バッグに当たりそうになったというのであるから、同人がスポーツバッグを見た位置はかなりこれに近接していたことが窺われ、そうであれば、その位置によっては、右新聞紙が手に提げていた右テキストの陰になって同人の目にとまらなかったこともあり得ると考えられるから、右供述間に違いがあるからといって、前記同一性を否定するのは相当でない。むしろ、別々の持主が色、形状の同じようなスポーツバッグを相前後して同一場所に、しかも同じ置き方で置いた上、その場からこれも同じように離れることの蓋然性は絶無に近いというべきである。従って、弁護人らの右主張は理由がない。

(2) 本件爆発物を装置した犯人とその装置時間の特定

証人藤井昭作の証言(第六七、六八、七一乃至七三回公判。その信用できることは後述するとおりである)、当裁判所の検証調書(昭和五六年三月一三日施行)によれば、偶々出張で来札し、道庁北隣りにある北海道自治会館に宿泊していた北海道根室市在住の藤井昭作が、本件爆破事件発生当日の午前八時二〇分頃、道庁西側の歩道上を北から南に向かって、更に南から北に向かって、往復歩行した際、往路において、押収してあるスポーツバッグに形状、色具合も酷似しているスポーツバッグを携帯し、眼鏡を掛けた二五、六歳くらいの男(以下「A」という)と、紙袋を携帯した男(以下「B」という)が道庁敷地内を北から南に向かって歩き、その後、道庁の西玄関から道庁内に入って行くのを目撃し、次いで、その二、三分後(検察官作成の実況見分調書によると、実況見分時の測定では二分くらい後)、復路において、A、Bが、道庁の西玄関から、それぞれ手ぶらで出て来たのを目撃していること、そして爆発物入りのスポーツバッグが装置された道庁一階エレベーターホール四号エレベーター昇降口北側の東方に面した壁際(爆心地)は、同庁西玄関から入って右斜方に位置し、同玄関からの距離は約一五メートル(縮尺図から復元して求めたもの)であることが認められ、以上藤井昭作がA、Bを目撃した時間及びその場所的関係、A、Bが道庁西玄関から同庁舎内に入ってから出て来るまでの所要時間、道庁の西玄関と爆心地との位置関係及びその間の距離、Aが携帯していたスポーツバッグと本件爆発物が収納されていたスポーツバッグとが、形状、色具合において酷似していること、しかもA、Bは道庁からそれぞれ手ぶらで出て来たもので、スポーツバッグを携帯していなかったこと等に鑑みると、藤井昭作の目撃したA、Bは、本件爆発物を装置した犯人であり、その装置時間は、本件当日の午前八時二〇分過ぎ頃であると認めるのが相当である。

被告人及び弁護人は、もし、本件スポーツバッグが本件当日の午前八時二〇分過ぎ頃、爆心地に装置されたとすれば、その頃道庁一階には警備員と守衛が継続的に警備に当たっており、不審人物がいたり、不審物が置いてあれば、それらに気付くはずである旨主張する。

しかし、《証拠省略》によれば、道庁一階ホールの警備は、本件当日午前八時二〇分頃から午前九時頃までの間、全く行われていなかったこと、すなわち、道庁一階ホールで立哨していた日本警備保障株式会社札幌支社警備員は、同日午前八時二〇分頃交代のため地下に降り、同午前八時二五分頃道庁守衛に勤務を引き継いでいること、そして、本来なら警備員から勤務を引き継いだ道庁守衛が午前八時三〇分から道庁一階ホールの警備に就くことになるのであるが、当時は、知事室警備のため、午前八時三〇分から午前九時までは一階ホールに守衛が配置されていなかったこと、なお右警備員の立哨位置から本件爆心地に対する見通しは、丁度玄関ホール内の柱が障害となるため死角になっていることが認められる。加えて、犯人が攻撃対象についてその警備状況等を調査するであろうことは腹腹時計にも記載されているように当然のことと思われるから、道庁の警備状況についてもこれを事前に調査し、警備の手薄な時間帯を狙って本件爆発物を装置したものと認めるのが相当である。してみれば、A、Bが道庁内に入った午前八時二〇分頃は、本件爆発物を装置するところを警備担当者に発見されるおそれの最も少ない時間帯であったというべきであり、A、Bはこの時間帯を狙って装置行為に出たものというべきであるから、この点に関する弁護人らの主張も採るを得ない。なお、《証拠省略》によれば、本件爆発物はスポーツバッグに収納された上、そのスポーツバッグの外側ポケットには新聞紙が差し込まれていたことが認められ、そしてこれが、前記のとおり、道庁一階のエレベーター昇降口の直ぐ脇に装置されたことに鑑みると、スポーツバッグ自体そもそも不審物とはいえない上、更にその外側ポケットに新聞紙を差し込むことによって、これを一層通常の来庁者らの手荷物の如く擬装したものというべきであるから、仮に右スポーツバッグを右エレベーター昇降口の直ぐ脇に装置するところを他人に目撃されても不審がられることがなく、その者をして、「エレベーターを待つ間、他に用事があって一時その場を離れるのではないか」などと思わせることが可能であって、A、Bは予めこのような場合のあることをも予想した上、万全の態勢をもって装置行為に及んだものと認められる。

(二) 藤井昭作が目撃した者(A)と被告人との同一性

(1) 証人藤井昭作の証言内容

証人藤井昭作の証言(第六七、六八、七一乃至七三回公判)によれば、同証人の証言は大要次のとおりである。すなわち、(イ)自分は、根室市に在る株式会社藤井水産の常務取締役をする傍ら、同市水産物加工開発協会の実行委員をしていたが、同協会員四名及び同市役所水産課技官一名とともに、札幌市内の水産物加工場等を視察する目的で同市に出張し、昭和五一年二月二九日及び三月一日の二日間、道庁北隣りにある北海道自治会館に宿泊した。(ロ)三月二日当日は札幌市内のスーパーマーケットの見学等が予定されており、午前九時に迎えの車が来ることになっていたので、午前六時五〇分頃起床し、午前七時三〇分過ぎ頃、地下の食堂で朝食をとり、午前八時過ぎ頃部屋に戻ったが、出発までにまだ四、五〇分ばかり時間があったことから、帰りの航空券を買っておこうと思い、一人で外出した。自治会館を出たのは、朝食等の時間的経過及び出発までの時間などから考えて、午前八時一五分から二〇分くらいでなかったかと思う。(ハ)最初、道庁内の交通公社で航空券を買おうと思い、自治会館を出て北四条通りを横断し、道庁西側の歩道上を北から南に向かって歩き、道庁西玄関前まで行ったが、道庁内の交通公社では、クレジットカードを利用できるかどうか心配になり、また、時間的に早くて道庁内の交通公社は開いていないかも知れないと思い、そこには立ち寄らず、以前利用したことのある駅前通りの日本生命ビル内の交通公社に行くことにした。それで、そのまま真直ぐに歩いて道警本部前まで行ったが、北二条通りを回って行くより、引き返して北四条通りを東に行く方が近道だと思い、そこから引き返した。そして、林業会館前まで行ったが、約束の時間が気になり、航空券はあとでも買えるという気持から引き返し、午前八時三〇分過ぎ頃自治会館に戻った。(ニ)ところで、自分は、道庁西側の歩道上を北から南に向かって歩いているとき、道庁敷地内を自分とほぼ平行に北から南に向かって歩いている二人連れの男を見た。二人連れの男は、ぴったり寄り添うようにして歩いており、自分に近い方の男(前記「A」である)は、眼鏡を掛け、手提げ式のバッグを右手に提げ、もう一人の自分から遠い方の男(前記「B」である)は、白っぽい手提げ式の紙袋を持っていた。二人に気付いてから三メートルくらい進んだとき、Aはバッグを左脇下にかかえるようにして持ち替えた。そのとき、Bは、更にAにぴったりくっついたような感じになったので、男同志のくせに随分くっついて歩いているなあと思った。AとBは、小声で話し合っているように見えたが、声は聞えなかった。自分が道庁西門の北側出入口前に差し掛かったとき、斜め前方からAとBの顔を見ているが、二人は、そのまま道庁西玄関から道庁内に入って行った。(ホ)その後、自分は、道警本部前まで行って引き返し、道庁西側の歩道上を北に向かって歩いているとき、AとBが道庁西玄関から少し急ぎ足で出て来るのを目撃した。AとBは西玄関から出て来たとき、二人とも何も持っていなかった。西玄関から出て来たAとBは、西門の北側出入口に向かって歩いていたが、その後、自分が同出入口のところまで来て、ふと顔を上げると、Aが斜め前方約三メートルくらいまで来ており、BはこのときAより三、四メートル後方にいた。そのとき、Aは眼鏡を外しており、自分とAは、目と目が合って一瞬立ち止ったが、二人とも直ぐ歩き出して擦れ違った。Aと一番接近したときの距離は、六、七〇センチメートルくらいであった。Aは、自分と目が合ったとき、自分を誰であるかというように探るような目付きをし、次に困ったような表情となり、そのあと直ぐ、薄笑いのような感じになり、それから顔がこわばって来て、最後には物凄い形相になった。その表情の変化を見て、因縁を付けられるんじゃないかという気持さえした。Aが何故にらみ付けたのか、その場では分らなかった。自分は、一瞬Aにつかみ掛かられそうな気がして、身構えるというような気持も働いた。Aは大きい目をしてにらみ付け、擦れ違って行った。(ヘ)Aの身長は、自分より一寸高めぐらいの感じで、まあ一七〇センチメートルくらいかなあと思った。Aの体格はすらっとしたような感じで、髪形は長くもなく短くもなく、普通のサラリーマンの襟足近くまであるような、そんな髪でなかったかと思う。Aの顔は、一寸見たところ、優しそうに見え、目の細いきゃしゃな感じで、ときどきは鋭い目付きを見せ、面長のような感じじゃなかったかと思う。擦れ違うときには、怒ったような大きな目だった。Aの年齢は大体二五、六歳くらいじゃなかったかと思う。Bは、Aより背が一寸低いような感じで、髪の長さは、Aと同じくらいか少し長いような感じであった。Bの顔は、Aの印象が強かったので、はっきりした記憶がない。強いていえば、がっちりした顔付きというようなくらいである。Aは普通の短めのレインコートを着ており、黒っぽいというか濃いグレーのような暗い感じの色で着古したようなコートであった。検察官が示したコート一着と形も色もよく似ている。長さもこの程度で、古さも同じ程度でなかったかと思う。Bは白っぽいというか薄いクリーム色という感じのコートを着ていた。Aが掛けていた眼鏡は、普通の合成樹脂製のもので、上が黒、下が白い縁でツートンカラーの眼鏡であった。Bは終始眼鏡を掛けていなかった。Aの持っていたバッグは、スポーツバッグのようなもので、色はグレーというか、何というか、暗い感じの長さ四、五〇センチメートルくらい、そんなに高くない細長いようなバッグであった。検察官が示したスポーツバッグ一個と形も色もよく似ているといえる。(ト)自治会館に戻ったのち、午前九時頃、便所の中で爆発の音を聞き、その後一五分か二〇分くらいして現場近くまで行った。Aについては、西門の北側出入口のところで出合ったときのことが、一番脳裏に焼き付いており、Aの表情は決して忘れることのできない顔である。三月二日の朝、道庁前で見たAという男は、この法廷にいる被告人に似ていると思う。(チ)被告人が逮捕されたことは、同年八月上旬、テレビで報道されたのを見て知ったが、そのテレビに被告人の顔写真や本人の動きのある映像が写ったのを見て、被告人が自分の見たAとよく似ているので、正直いってびっくりした。そのことを妻にも話している。当時出た新聞の写真よりも、テレビの方が実際の動きがあったためか、ぴんと来るものがあった。同月一八日頃、札幌中央警察署で被告人の面通しをした。まず、留置場に続いている事務所で刑事と話していたとき、被告人が目薬を取りに入って来たが、被告人を見た瞬間、三月二日のAとそっくりなので驚いた。そのときの被告人との距離は、一メートルから一・五メートルくらいで、被告人は眼鏡を掛けていた。更に、透視鏡を通して、取調室にいる被告人が正面、後ろ、左右と向きを変えた姿を見たり、被告人が眼鏡を掛けたり外したりするのを見た。面通しの時間は、一回目、二回目を合わせて二分くらいだった。その面通しの結果、被告人と自分の目撃したAとが、よく似ており、絶対間違いないとまでは断言できないが、被告人は、Aといわゆる顔の感じがそっくりで、背格好や年格好も似ており、Aと同一人物だと思った。検察官が示した被告人の写真四枚は、面通しをした当時の被告人の顔の感じである。現在法廷にいる被告人は、面通しをしたときと髪形が変っており、少しやせ、顔色も白くなったような気がする。自分の記憶が絶対間違いないとまではいわれないが、自分が見た三月二日のAと被告人は、非常によく似ており、同一人物だと思うというものである。

(2) 証人藤井昭作の証言の信用性

ⅰ 証人藤井昭作の証言態度は自然で、落ち着いていて、そこに作為を感じさせる何ものもないところ、その証言内容は、具体的かつ詳細で、臨場感にあふれ、体験した者でなければ、到底供述することができないものであり、なかでも「Aは、自分と目が合ったとき、自分を誰であるかというように探るような目付きをし、次に困ったような表情となり、そのあと直ぐ、薄笑いのような感じになり、それから顔がこわばって来て、最後には物凄い形相になった。Aの表情は決して忘れることのできない顔である」と述べるところは、その実相を示して余りがあるのみならず、同証人の目撃体験が記憶の中に消すことのできない鮮烈な印象として刻み込まれていることを如実に示しており、同証人の証言の確度は極めて高いというべきところ、同証人は、本件当日、Aの顔付き、表情(またその変化)、身長、躰付き、その動き、年齢などから受けた全体的で、しかも個別的印象と、面通しや法廷等における被告人のそれを基にして、Aと被告人との同一性の有無を直覚的に判断し、Aが被告人と同一人物である旨証言しているのであり、特に「被告人が逮捕された際、テレビに被告人の顔写真や本人の動きのある映像が写ったのを見たが、被告人がAによく似ているので正直いってびっくりした。当時出た新聞の写真よりも、テレビの方が実際の動きがあったためか、ぴんと来るものがあった」、「警察で被告人の面通しをしたが、被告人を見た瞬間、Aとそっくりなので驚いた」旨、Aと被告人との同一性に関して述べるところは、同証人の当時の気持の動き、そして判断を率直に表現していて不自然さがないばかりか、事理にも適っている上、同証人の証言にあらわれたAの顔付き、身長、躰付き、年齢等も被告人のそれとほぼ一致していて矛盾せず、そして同証人の供述に基づいて昭和五一年四月一六日作成されたAのモンタージュ写真も被告人の容貌と個々の点で、また全体から受ける感じにおいて似ており、更に、同証人が被告人と何らの利害関係もなく、敢て被告人に不利な供述をしなければならない理由がないこと等を併せ考えると、同証人の証言は十分信用に値するものというべきである。

ところで、証人藤井昭作は、第六七回公判において、検察官の「Aの表情は今でも思い浮べることができますか」との問に対し、「はい、このことは、決して、何か、忘れることのできないような顔だったんでないかな」と述べ、「今、この法廷にいる人たちをよく見て下さい。この中に証人が三月二日の朝、道庁で見た人がおりますか」との問に対し、「はい、おります」と答え、更に「どの人ですか」との問に対し、「そこにいる被告に似てると思います」と供述したところ、被告人から「馬鹿野郎、たわけ、ぶっ殺すぞ本当に」と怒鳴られ、その後の第六八回公判において、検察官から重ねて、被告人が三月二日に道庁で見た男と似ている程度について質問を受けた際、その答えにちゅうちょを示し、検察官から「証人は、被告人の大森が目の前におりますと、いいにくいですか」と問われるや、その理由についても、被告人の右発言をふまえて、「それは、やっぱり、私は、まあ、この事件の直接な被害者でもありませんし、まあ、心情的にも、ちょっと、考えらさるところもありますし、私も、まあ、家族があって、生活してますしね。まあ、きのうみたいようなこともありまして、やっぱり、正直いって、いいにくいですよ」とその心情を述べ、検察官から「大事な裁判ですので、ひとつそこんところは勇気を出していって下さい」と促がされ、「絶対間違いない、ということは断言できませんけれども、私が見た、三月二日のAとは、まあ、同一人物じゃないかということです」と証言し、更に、検察官からの「三月二日に道庁で見たAの男は、大森だといえますか」との問に対し、即答をしぶり、検察官から「いいにくいですか」といわれて、「いや、まあ、私も人間ですしね。私の記憶が絶対間違いないということはいわれないです。しかし、私が見た三月二日のAという人物と、同一人物だと、そういうふうに思います」と証言したが、第七三回公判において、被告人から、同証人とAとが擦れ違ったときのことについて「視線が合って、順番にずれて行ったと。その男が俺によく似ているというふうに、一二月公判でいったな」と問われ、次いで「ところが、俺、眼鏡取ると、視力〇・〇一でね。ここにいる書記官が、眼鏡掛けてるのか、どこに鼻があるのかも全然分らないんだよ。あんたが男なのか、女なのか、分らないんだよ。これでも、大森だというのかい」と詰問され、「あなたと、特定してないですよ。私は」と答え、更に「似てるといったじゃないか」といわれて、「似てるということと、あなただということとはこれ違いますから……」と証言している。このような証言の経緯からも明らかなように、同証人は、検察官の質問に対してはAと被告人との同一性を肯定しながら、被告人の質問に対してはそれまでの証言内容を後退させたとも受け取れる証言をしていることが認められるが、しかし、同証人が被告人の質問に対して前記のような内容の証言をしたのは、被告人の威嚇的な発言と強圧的な尋問態度に怖気付いたことによるものと認められ、同証人の証言全体から受ける印象とは異質のものであって、被告人の質問に対する証言内容を額面どおり受け取ることは相当でなく、同証人のAと被告人とは同一人物であるとする証言部分の信用性はそのことをもっていささかも左右されるものではないというべきである。

ⅱ ところで、被告人及び弁護人は、左記のとおり、証人藤井昭作が目撃したAと被告人とは同一人物ではない旨種々主張し、同証人の証言の信用性を極力争っているので、以下判断を示す。

イ 被告人及び弁護人は、藤井がA、Bを目撃した前後の行動につき、行き先(航空券の購入先)やそこに行こうとする道順について、不自然な変更が多いとして、これらは藤井証言全体の信憑性を損なう重要な事情として見逃すことができない旨主張する。

しかし、人間は誰しもすべて合理的に行動するとは限らないのであり、ましてや出張先で時間の合間をみながら、思い付くように帰りの航空券を購入すべく出掛けた藤井がその購入先やそこに行こうとする道順についてあれこれ気持を揺り動かしたとしても何ら不思議なことではなく、弁護人らの右主張は到底採るを得ない。

ロ また、被告人及び弁護人は、証人藤井昭作の証言と同人の司法警察員に対する昭和五一年四月一〇日付供述調書の供述記載との間には、(イ)A、Bの人相、体格の特徴及び着衣など、(ロ)藤井がバッグを持っているAを見た状況など、(ハ)A、Bが道庁西玄関から出て来たときの二人の位置関係及び眼鏡装着の有無、藤井がA或いはBとばったり出合ったときの場所及びその際藤井をにらみ付けた男等に関し、重大な食い違いがあるから、Aと被告人は非常によく似ており、同一人物だと思う旨の藤井の証言部分は信用し難い旨主張する。

そこでまず、右(イ)の点について検討するに、Aについては、藤井証言では、(a)身長は一七〇センチメートルくらいで体格はすらっとしたような感じ、(b)黒っぽいというか、濃いグレーのような暗い感じのする着古したような短めのレインコートを着ていた、(c)髪形は長くもなく短くもなく、普通のサラリーマンの襟足近くまであるような髪、(d)顔は優しそうに見え、目の細いきゃしゃな面長の感じで、ツートンカラーの眼鏡を掛けていたというのであり、供述調書では、(a)身長は一六八、九センチメートルで体格はきゃしゃ、(b)濃いグレー系のスプリングコートのようなものを着ていた、(c)髪形は襟足くらいまでの長さ、(d)横顔はきゃしゃな角顔の感じで、目は細く、眼鏡を掛けていたとある。Bについては、藤井証言では、(a)身長はAより一寸低いような感じ、(b)着ていたコートは白っぽいというか薄いクリーム色の感じのもの、(c)髪の長さはAと同じくらいか少し長いような感じ、(d)顔ははっきりした記憶がないが、強いていえばがっちりした顔付きで、眼鏡は掛けていなかったというのであり、供述調書では、(a)身長はAより若干低い感じ、(b)体格はややがっちり型で、着ていたコートは白っぽいもの、(c)顔形ははっきり覚えていないとあり、右(イ)の点に関しては、藤井証言と同人の供述調書とは表現の違いこそあれ、内容的には概ね一致しており、何ら矛盾するものではないから、右(イ)の点に関する藤井証言の信用性にはいささかも疑問の点はなく、弁護人らの右主張は理由がない。

次に、右(ロ)の点についてみるに、藤井証言では、(a)二人連れを見たとき、Aは手提げ式のバッグを右手に提げていたが、自分が三メートルくらい進んだところで、Aはバッグを左脇下にかかえるようにして持ち替えた、(b)Aが持っていたバッグは押収してあるスポーツバッグに形も色もよく似ているというのであるのに対し、供述調書では、(a)二人組の男達は自分の方に背を向けて道庁西玄関から入って行ったが、その後姿を見たとき、Aが左脇にバッグをかかえているのが目に付いた、(b)そのバッグはAのスプリングコート(濃いグレー系)の色褪せたような色の布製のバッグだったと思うが、バッグの型などは分らないとあり、なるほど、藤井が最初にバッグに気付いたときの状況については、藤井証言と同人の供述調書との間に食い違いがあることは確かであるが、しかし、右藤井証言は、具体的、詳細で臨場感の強いものであり、実際に見聞していなければ容易に供述することのできない内容のものであるというべく、そして、同証人の、バッグの形状・色具合についての証言内容も、供述調書と同じ日に、渋木摩早子が同証人の話を聞きながら、これに基づいて作成したいわゆるイラストレーション(人物二名をデッサンした絵)のそれと概ね符合している(この点につき、弁護人は、右イラストレーションを作成した当時、本件爆発物を収納していたバッグの形状及び色具合は既に捜査官に判明していたから、藤井の説明がなくても、渋木摩早子においてイラストレーションにバッグを書くことは容易になし得た旨主張するが、証人渋木摩早子の証言(第七四回公判)によれば、渋木は、専ら藤井の供述に基づいて右イラストレーションにバッグの形状及び色具合を描いた(色については藤井との間で意見の一致をみなかったが、同系統の色として描写されていると思われる)ことが認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はなく、右主張は採るを得ない)ことに鑑みると、右(ロ)の点に関する藤井証言は十分信用に値するものというべきであるから、弁護人らのこの点の主張も理由がない。

更に、右(ハ)の点についてみるに、藤井証言では、(a)A、Bは道庁西玄関から出て来たとき、自分から見て右側にA、左側にBが位置していた、(b)そのときAは眼鏡を掛けていなかった記憶があるがはっきりしない、(c)自分が西門の北側出入口のところまで来たとき、Aは斜前方約三メートルくらいのところまで来ており、そのとき眼鏡を外していたAと目が合い、Aは自分を誰であるかというように探るような目付きをし、次に困ったような表情となり、そのあと直ぐ、薄笑いのような感じになり、それから顔がこわばって来て、最後には物凄い形相になり、大きい目をしてにらみ付け、擦れ違って行った、(d)Bは、Aを西門の北側出入口で見たとき、Aの三、四メートル後方にいたというのであるのに対し、供述調書では、(a)先程見た二人組の男達が向かって左側にA、右側にBが並んで出て来るのを見付けた、(b)この男達の服装や人相は前に見たのと全く同じであった、(c)自分はその二人組が道庁正面から出て南に曲るのとばったり合った状態になり(供述調書添付の図面では、西門の南側出入口である)、その左側を擦れ違って北の方に向かったが、このときBは自分をじろっとにらむようにして行ったのが印象に残っているとあり、なるほど、藤井証言と同人の供述調書ではAとBが全く逆になっており、藤井をにらみ付けた男がAであるかBであるかの食い違いは重大である。しかし、藤井証言によれば、藤井は、AとBは服装や全体の顔の感じなどで明確に区別することができるとした上で、Aの顔の特徴を挙げ、その顔については、西門の北側出入口でAと前叙のような出合いがあったため、忘れることができない程の印象をもって記憶しているが、Bの顔については、Aの印象が強烈であったため、はっきりした記憶がないというのであり、供述調書においても、Aの顔の印象については前記のとおり具体的にその内容が記載されながら、Bの顔のそれについてははっきり覚えていないとのみ記載されているに過ぎない上、証人渋木摩早子の証言(第七四回公判)によれば、藤井は、右供述調書と同じ日にイラストレーションの作成に当たった渋木に対し、眼鏡を掛けた方の男ににらまれたのを一番よく記憶している旨述べていること、更に藤井証言及び押収してあるイラストレーションによれば、藤井がBの顔についてはっきりしないと述べたため、渋木によって作成された右イラストレーションにおいてもBの顔が消されてはっきり描かれていないことが認められることに鑑みると、藤井をにらみ付けて同人に強烈な印象を残してしまった男はBではなく、顔の特徴を挙げることができるAであると認めるのが相当であり、してみれば、供述調書は、これを作成した警察官が藤井の供述を誤解し、道庁西玄関から出て来たAとBの位置関係及び藤井をにらみ付けた男についてAとBを取り違えて記載したもの(なお、藤井とAが出合った場所について、藤井証言と同人の供述調書添付図面との間には、前記のとおり、食い違いがあるが、しかし、藤井証言によれば、同証言は、実況見分時、現場を歩いてみて、本件当日の行動を再現した結果に基づいてなしたというのであるから、頭の中だけで考えて図示したものよりも証言の方が信用性が高いことは多言を要しない)というべきである。

なお、藤井証言によれば、藤井は、供述調書が作成された際、供述調書添付の図面に記載された、について、擦れ違ったときの二人の位置関係が間違って逆に記載されていることに気付き、そのときこれを青鉛筆書きの上から黒のボールペンで書き直したことが認められるところ、この点につき、弁護人は、右藤井証言は合理的な説明とはいえないから、むしろ捜査官が後日、青鉛筆で書かれた、の上から、黒のボールペンで書き直して改ざんしたものである旨主張するが、もし、捜査官が弁護人のいうように供述調書添付図面の、を改ざんしたのであれば、特段の理由がない限り、供述調書本文の方もこれに合わせて書き直し、両者の間に矛盾のないようにしておくのが普通であるというべきである(証拠を精査しても、本件において供述調書本文の記載と添付図面の記載とを不一致のままにしておく特段の理由は認められない)から、両者が不一致のままであるということは、むしろ藤井証言の真実性を逆に証明しているといえる。

以上によれば、右(ハ)の点に関する藤井証言と同人の供述調書(添付の図面を含む)の供述記載との間には、実質的には何ら食い違いのないことが認められるから、この点に関する弁護人らの主張も理由がなく、藤井証言の信用性は何ら損なわれないというべきである。

更に、被告人及び弁護人は、藤井証言と同人の供述調書との間には、そのほか、藤井が自治会館を出た時刻、藤井が二人連れの男を初めて見たときの二人連れの男の歩いていた方向、藤井が道警本部庁舎前まで行き、引き返した地点、藤井が自治会館を出て戻るまでの間に時計を見たか否か等について食い違いがある旨主張するが、しかしこれらは、実況見分の際、本件当日の行動を再現した結果、供述調書録取時、頭の中だけで考えて間違った供述をしていたことに気付き、証言でこれを改めたため食い違いとなったもの、記憶がはっきりしないのに、供述調書に断定的に記載されている点について、証言の際、記憶がはっきりしないと述べたり、何も述べなかったりしたため食い違いとなったもの、或いは実質的にみて差異がないものなどであって、藤井証言の信用性を弾劾するに足るものとはいえないから、弁護人らの右主張も採るを得ない。

ハ 次に、被告人及び弁護人は、藤井は、(イ)Aの身長について、自分の身長の一六八センチメートルより少し高めの一七〇センチメートルくらい(供述調書では一六八、九センチメートルと供述)である、(ロ)Aの体格はすらっとしたような感じ(供述調書ではきゃしゃな体格と供述)である旨証言しているが、被告人は身長が一七三・五センチメートルで、骨太のがっちり型の体格であるから、Aと被告人とは相違しており、またAが被告人であれば身長の差はより大きく藤井の印象に残るはずである旨主張する。

しかし、人の身長、体格については、その服装、それぞれの位置関係、周囲の状況、それぞれが履いている靴の高さ等により、かなり異なった印象を受けることは日常よく経験されるところであり、藤井は、Aの身長について自分より低かったとはいっておらず、右の程度の誤差は目測に伴う誤差として容認し得るものといわざるを得ず、またAの場合コートを着用していたのであるから、外見から受ける体格の印象についても、いわゆる感じの問題として、ある程度の幅があることは当然というべきであるから、弁護人らの右主張は理由がない。

ニ また、被告人及び弁護人は、藤井は、昭和五一年四月一〇日渋木摩早子にA、Bの人相等を説明し、これに基づいて渋木が三枚のイラストレーションを作成しているが、その描かれているAの顔付き、長髪・オールバックの髪形は被告人とは異なっているから、Aと被告人とは同一人物ではない旨主張する。

しかし、証人渋木摩早子の証言(第七四回公判)によれば、右イラストレーションは、いわゆる似顔絵を目的としたものではなく、服装、持物、二人連れの寄り添った姿、Aがバッグを持っている状態を描写することに重点がおかれていたことが認められるところ、他方証人藤井昭作及び同渋木摩早子の各証言(前記)によれば、渋木自身、その当時、目撃者の説明を受けて的確にこれを描写するだけの経験を積んでおらず、技術的にも未熟であったため、Aの顔付きについては藤井の納得し得る描写ができなかったことが認められ、また、髪形については、証人二宮トミの証言(第七七回公判)によれば、同人方に居住していた当時の被告人の髪は、長くもなく短くもなく、分けていて襟足に少し掛かる程度の、普通の髪形であったというのであり、そして証人水梨文男の証言(第八四回公判)によれば、昭和五〇年九月、一〇月頃の被告人の髪は、七―三に分け、後ろは首が隠れ、横は耳が半分隠れ、前髪は眉毛が隠れる程度の長めの髪形であったことが認められ、以上によれば、本件当時、被告人が長めの髪形をしていたことは明らかであって、右イラストレーションの髪形と大差がないというべきところ、髪の長さは理髪の前後によってもかなり差異があるものであり、髪形に至ってはいくらでもこれに変化を持たせ得るものである上、これらは多分に観察者の感じ取り方にも左右される性質のものであるから、これらの多少の差異は殊更問題とするに足りないというべきである。してみれば、仮に右イラストレーションに描かれているAの髪形と被告人の当時の日頃の髪形との間に弁護人が主張するように多少差異があったとしても、その一事をもってAが被告人ではないとすることはできず、弁護人らの右主張は採るを得ない。

ホ 更に、被告人及び弁護人は、Aが着用していたとしてイラストレーションに描かれたコートの色と被告人が当時所持していたコートの色とは明らかに異なり、被告人はイラストレーションに描かれたような色のコートを所持していないから、Aと被告人とは同一人物ではない旨主張する。

なるほど、弁護人らの主張するとおり、右イラストレーションに描かれたA着用のコートの色と被告人の所有物として押収(証人内野勝の証言(第七〇回公判))されたコートの色との間には差異がないわけではない。しかし、証人藤井昭作及び同渋木摩早子の各証言(前記)によれば、藤井は、イラストレーションを作成する際、Aの着用していたコートの色について、「濃いグレーのような黒っぽい、黒とも何ともつかないような色」ということで、渋木に説明しているが、二人の間では色の描写についてかなり揉め、更に藤井の説明にも不十分な点があり、また渋木も経験不足であったため(このことは、イラストレーション三枚の間でも、同じコートの色でありながら色に差異があることからも十分窺える)、藤井の意図するようにはA着用のコートの色を的確に描写できず、結局藤井の納得のいく出来映えにはならなかったことが認められるから、右イラストレーションに描かれたコートの色はA着用のコートの色そのままを描写しているといえないことはいうまでもない(従って、弁護人らの右主張は、この点においてその前提を欠くから、理由がないことは明らかである)。ところで、藤井は、その証言(第六七、七一、七二回公判)において、Aが着用していたコートの色の印象を聞かれ、「黒っぽいというか、濃いグレーのような暗い感じのする色」と述べ、更に前記コートを示されて、「Aの着用していたコートに形・色具合がよく似ている。その色は黒ともいわれない」旨証言している(同人の供述調書では濃いグレー系のスプリングコートのようなものとあるが、藤井証言と同人の供述調書との間に食い違いはないといえる)ところ、渋木も、その証言(第七四回公判)において、右コートを示されてその色を尋ねられた際、「光の当たっていない部分は黒で、光の当たっている部分は黒に近い灰色に見える」と答えているように、同じ色でも、明暗による違いとか、人の感じ取り方による違いがあって、一概にどの色と決め付けることは難しく、せいぜいどういう色という程度の幅を持った表現とならざるを得ないところ、右コートを仔細に検分しても、明暗の具合、それとの距離等によって随分違った色の印象(黒っぽく見えたり、濃いグレーに見えたり、或いはそれぞれの中にグリーンが混じって見えたり等)を受けるのであるから、藤井証言も右コートの色の見え方の一面をとらえているということができ、結局この点からも、弁護人らの右主張は理由がない。

ヘ 次に、被告人及び弁護人は、藤井の協力によって札幌で作成されたAのモンタージュ写真は、被告人に似ているが、これは、藤井証言を補強するため、被告人が逮捕された昭和五一年八月一〇日以後に、被告人の被疑者写真を土台にして作成されたものであるから、被告人に似ているのは当然である旨主張する。

しかし、右のモンタージュ写真が作られた経緯は、次のとおりであることが認められ、弁護人らの右主張は採用することができない。すなわち、証人藤井昭作(第六八、七二、七三回公判)及び同三波仁作(第七五回公判)の各証言によれば、道警本部刑事部鑑識課所属の三波仁作が昭和五一年四月一二日道警釧路方面本部で、藤井昭作の説明を受けながらAのモンタージュ写真の作成に取り掛かったが、モニターテレビ(モンタージュ合成機)の調子が悪くて合成作業がうまくいかず、暗礁に乗り上げてしまったところ、藤井から前に刑事に見せて貰った写真を修正すれば、或いは似てる面が出て来るかも知れない旨の申し出があったので、実方という特定の者の写真を取り寄せ、これを土台にして手で修正を加え、Aのモンタージュ写真を作ってはみたものの、本来無理な方法であったため、右のモンタージュ写真は、眼の細いところがAに似ている程度で、あとは全く似ておらず、到底藤井の満足し得る出来映えではなかったことから、もう一度作成し直すことになり、同月一六日に道警本部刑事部鑑識課で二回目のモンタージュ写真が作成されたこと、このときは、モニターテレビの調子もよく、藤井において、約四、〇〇〇枚の被疑者写真の中から部分的に似ているものを二五枚くらい選び出し、三波がこれを合成してAのモンタージュ写真を作ったが、その出来映えについては、藤井としても、満足できるというものではなかったにせよ、記憶にあるAの方が若干面長であったことを除けば、Aに大体似ているという感じのものであったこと、そして検一〇五〇のモンタージュ写真がそのとき道警本部刑事部鑑識課で作られた右のAのモンタージュ写真に間違いがないことが認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はないところ、もし右モンタージュ写真が、弁護人らの主張するように、藤井証言を補強するため、被告人の逮捕後に、被告人の被疑者写真を土台にして作成されたものであれば、一見して被告人と分るように、もっと被告人に似せて作成されていると思われるのに、必ずしもそうでないことは、むしろ右各証言によって認められるように、これが四月一六日に作成されたものであることを証しているものといえる。弁護人らの右主張は理由がない。

なお、被告人及び弁護人は、右のAのモンタージュ写真は、これより六日前に藤井の説明で作成されたAのイラストレーションとも異なる旨主張するが、しかし、前叙のとおり、右のイラストレーションがいわゆる似顔絵を目的として作成されたものではないこと、更にこれを作成した渋木摩早子がそのときまで一度も顔のイラストレーションを作成したことがなく、技術も未熟であったため、Aの顔付きについては藤井の納得のいくような描写ができなかったことが認められるから、右のモンタージュ写真と右のイラストレーションの顔付きに違いがあったとしても、何ら異とするに足りず、弁護人らの右主張は理由がない。

ト また、被告人及び弁護人は、藤井が眼鏡を掛けていないAの顔を見たというのであれば、当然眼鏡を掛けていないAのモンタージュ写真が作成されていなければならないのに、これが作成されていないのは眼鏡を掛けていないAの顔を見たという藤井証言が虚偽であることを示している旨主張する。

なるほど、眼鏡を掛けていないAのモンタージュ写真がない(イラストレーションも同様である)ことは確かであるが、しかし、証人藤井昭作(第七一、七三回公判)及び同三波仁作(第七五回公判)の各証言によれば、本件のモンタージュ写真やイラストレーションは、いずれも、ただAは眼鏡を掛けている男、Bは眼鏡を掛けていない男ということで作成されたに過ぎないものであること、眼鏡を掛けたAのモンタージュ写真は、まず眼の感じなどを説明して眼鏡を掛けていない顔の映像を作出し、そのあとその上に眼鏡の映像を重ね合わせていったものであって、眼鏡を掛けていないAの顔が基礎になっている(イラストレーションも同様である)ことが認められ、そして眼鏡を掛けていないAの顔を見たという藤井証言が信用できることは前叙のとおりであるから、弁護人らの右主張は理由がない。

チ 更に、被告人及び弁護人は、被告人は、本件当時、つるも柄も全部黒い眼鏡をしていたもので、藤井がいうツートンカラーの眼鏡はこれを所持していなかったのであるから、Aは被告人ではない旨主張する。

しかし、《証拠省略》によれば、被告人は、黒縁の眼鏡のほかに、銀縁の眼鏡も所持しており、しかもそれは変装用のために購入したことが認められるところ、変装に人一倍気を使っていた被告人がツートンカラーの眼鏡(後述するように度無しと思われる)を所持し、身近にいる者(普段顔を合わせる者に対し変装する必要はない)に悟られないように使用していたとしても(銀縁の眼鏡についても身近な者に気付かれていない)、何ら異とするに足りないから、ツートンカラーの眼鏡が発見押収されていないからといって、被告人が所持していなかったということはできない。従って、弁護人らの右主張は理由がない。

リ また更に、被告人及び弁護人は、被告人が犯人なら、普段眼鏡を掛けている被告人としては、本件のような場合、眼鏡を掛けることなく、コンタクトレンズだけを使用して行動するであろうから、道庁内に入るときには眼鏡を掛け、道庁から出て来るときには眼鏡を外す行動をしたというAは到底被告人ではない旨主張する。

しかし、《証拠省略》によれば、被告人は、変装用に、コンタクトレンズを購入しこれを使用していたばかりでなく、更に、コンタクトレンズ用のために銀縁の度無しのサングラスを購入し、また普段使用している黒縁とは異なる銀縁の度入り眼鏡を所持するなどして、これらを、あるときは単独に、あるときは組み合わせて使用し、巧みに変装していたことが認められるから、被告人が本件犯行に際し、道庁内に入るときにはコンタクトレンズの上に、フレームがツートンカラーの度無しの眼鏡を掛け、道庁から出て来るときには眼鏡だけを外すという変装形態をとり、万一目撃されるようなことがあっても(同じ人に二度も目撃されることは予想外のことであろうから、むしろ一番気を付けたのは、道庁内に入るときと道庁から出るときの印象を変え、それぞれのときに目撃されても、眼鏡を掛けたり外したりして変装することにより、同一人としての結び付きを断ち切ろうとしたことにあると思われる)、別人という印象を与え、更に、日常使用している黒縁の眼鏡を使用しないことにより、自己との結び付きをなくそうと企図したとしても何ら不合理ではなく、従って、弁護人らの右主張は理由がない。

ヌ また、被告人及び弁護人は、二人連れの男は藤井にとって一面識もない他人であり、藤井が二人連れの男を目撃した時間もごく短く、ましてAの顔を直視したのはせいぜい二秒くらいであったから、擦れ違った一面識もない人物の人相等を正しく記憶にとどめ、これを誤りなく再現することは不可能である旨主張する。しかし、藤井証言によれば、藤井は、通りすがりの人間を単に一べつしたというのではなく、特異な体験としてAの表情の変化を読み取れるほど強烈な印象をAから受けたのであるから、弁護人らの右主張は理由がない。

(三) まとめ

以上のとおりであって、弁護人らの前記各主張はいずれも採るを得ず、証人藤井昭作の証言はこれを信用することができるから、同証人の目撃したAが被告人であることは疑いを容れないものというべく、被告人が本件爆発物を装置使用した犯人であることは明白である。

三  被告人の不自然、不可解な言動等について

被告人は、本件犯行を全面的に否認し、アリバイまで主張している(その主張の信用できないことは後述するとおりである)が、被告人には、次のとおり、不自然、不可解な言動等が認められるので、これらの点について検討を加える。

1  本件当日の不自然、不可解な行動等

被告人は、本件当日午前一時三〇分頃帰宅してから午前九時三〇分過ぎ頃外出するまでの間、前記二宮方の被告人居室にいた旨供述して、アリバイを主張するほか、更に、右外出後の当日の行動等について、次のとおり、供述している。すなわち、(イ)(自分は)午前九時三〇分過ぎ頃外出し、本屋などに寄ったのち、午前一〇時三〇分頃、北二五条東三丁目の市民生協に行ったが、その際、テレビのニュース速報で、初めて本件爆破事件の発生を知り(第一〇二乃至一〇四、一〇七乃至一一〇回公判)、早く自室に戻って臨時ニュースを見ようと思い、二宮方に向かったが、その途次において、後日警察官がアパートローラーに来たとき、二宮トミから「大森は、道庁爆破に異常な関心を持っていた」などといわれると困るので、二宮トミに本件のことを尋ねられても、不審がられないように、ごく自然にふるまおうと考え、とるべき対応を頭に描きながら帰った(第一〇二、一〇四、一〇八乃至一一〇回公判)、(ロ)また警察官のアパートローラーに備え、本件当日の自己の行動については記憶に残す努力をした(第一〇二、一〇八回公判)、(ハ)当日午後四時頃、情報収集を兼ね、地下鉄駅に夕刊を買いに行ったが、一箇所でまとめて購入すると、警察官が張り込んでいて不審がられるかも知れないと考え、二四条駅と一八条駅の二箇所に分けて、購読していた「毎日」を除く、「朝日」「読売」「道新」「北海タイムス」の四紙を買ったと思う(第一〇二、一〇四、一〇八、一一一回公判)旨供述するのであるが、被告人の右(イ)、(ロ)の思考態度は、まさに、犯人のものであるというべきであって、被告人が爆弾闘争を目指していただけで、本件に全く関与していないというにしては、余りにも気配りがよく、警戒心も行き届き過ぎていて、不自然、不可解というほかはない。また右(ハ)の行動にしても、その対応の仕方は余りにも過剰であって、これは、被告人が自己の犯行の成果を確認するとともに捜査の進捗状況をできるだけ多角的に把握したいという犯人心理を顕著に示したものとみない限り、到底理解し難いことといわなければならない。

2  警察の捜査に対する異常な関心

被告人は、本件に関する捜査の進捗状況等が掲載されている「北海ポスト」(一九七六年五月号)、「月刊ダン」(昭和五一年五月号)を購読していたと認められるが、右「北海ポスト」の「道庁爆破の犯人像を追う、『窮民革命』に名を借りた狂気グループに焦点絞る道警捜査陣」と題する記事中、「現時点で道警が押さえているブラックリストの中に犯人はいないのではないかと思われる」、「地域的には札幌と周辺、広域の二面捜査」、「道警爆破の時、道警が組んだ特捜班は五百人」という箇所などに丸印を付けるなどして、捜査体制や捜査の進捗状況に異常な関心を示していたことが認められ、これもまた犯人でない者の行為にしては極めて過剰で不可解なことといわなければならない。

3  その他の言動

(一) 被告人は、本件事件後、勤め先の山一パーキングに聞き込みに来た警察官から、イラストレーション綴りを見せられて事情を聞かれたときのことについて、「イラストの人物は、道庁に入るには全くふさわしくない服装をしていたし、一見して過激派を思わせるような長髪であった。これは道警さんも全然分っとらんなという印象を持ちました」と供述し、弁護人から「どうして分っていないということになるんですか」と質問されるや、「そんな格好で行くわけないもん」と答えている(第一〇三回公判。第一〇八回公判も同旨)が、これは犯人がどのような服装や髪形をしていたかを知っている者でなければいえないことであって、本件犯行を否認している被告人の供述態度と全く相容れないものであるというほかはない。

(二) また、《証拠省略》によれば、被告人は、札幌から退去する直前の八月九日午前九時頃にも、ゴミステーションに塵芥類を投棄しているが、その際、ゴミ回収車による回収が終わるまでこれをその場で見張っていたことが認められる。もっとも、被告人は、右のような行動をとったことについて、「(自分は)警察官の追尾には同月七日午後九時過ぎ頃気付いたが、そのときまでにはすべてを処分していたので、警察官に対する抗議と嫌がらせの意味で見張っていた」旨弁解する(第一〇五、一〇六、一一〇回公判)が、しかし、被告人は、右塵芥類が回収されても安全だ(被告人の当公判廷(第一〇五回)における供述)といいながら、約四、五〇分間も見張っていた(証人小松昭雄の証言(第一〇回公判))というのであるから、被告人の右弁解も説得力に乏しく、被告人がこのようにゴミ回収車が来るまで右塵芥類の側から離れようとしなかったのは、その中に被告人にとって発見押収されると都合の悪いものが含まれていたからであると解するのが、むしろ自然であるというべきである。

(三) 更に、被告人は、ドリルについて、購入も所持もしていない旨述べながら、その供述とは裏腹に、「仮に、ドリルを持っていたとすると、穴なんか一分あれば開くので、消火器に穴を開けてますね……」などと断定的な供述をしている(第一〇三回公判)のである。この点は、実際にドリルで消火器に穴を開けた経験がなければ、時間まで断定していえることではなく、被告人の右供述は、口を滑らせて真実を吐露したものと認められる。

4  まとめ

以上のように、被告人の言動等には、被告人が本件の犯人でなければ到底理解し難いものが認められるのであって、このことも、被告人を本件の犯人と推認させる一つの事実として看過することができないものである。

四  被告人にはアリバイがあるという弁解について

被告人のアリバイに関する弁解の要旨は、「(自分は)三月一日は出勤日であったので、山一パーキングで仕事をし、翌二日午前一時三〇分頃、自分の自動車で二宮方に帰り、就寝した。同日午前八時五〇分頃起床したが、午前九時三〇分過ぎ頃歩いて外出し、北二四条通りの本屋に、月初めに出る月刊誌を見に出掛けた。北二四条通りには、三軒の本屋があり、そのうちの一軒に入ったが、どの本屋であったかはっきりしないし、本を買ったかどうかもよく分らない。そのほかに、喫茶店に寄ったような記憶もあるけれど、はっきりしない。それから、北二五条東三丁目の市民生協に行って食料品を買ったが、午前一〇時三〇分頃、電化製品売場に置かれていたテレビのニュース速報で、初めて本件の発生を知り、早く自室に戻って臨時ニュースを見ようと思い、二宮方に向かった。その途次において、歩きながら、後日警察官がアパートローラーに来たとき、おばさん(二宮トミ)から『大森に、道庁爆破に異常な関心を持っていた』などといわれると困るので、おばさんに本件のことを尋ねられても不審がられないように、ごく自然にふるまおうと考え、とるべき対応を頭に描きながら帰った。二宮方に帰ると、玄関でおばさんに会ったが、『あら、買物』といわれただけだったので、『うん』と答えて自分の部屋に戻り、テレビで道庁爆破のニュースを見た。午後四時頃、情報収集を兼ね、地下鉄駅で夕刊を買うため外出しようとした際、おばさんから『今日、道庁爆破あったけど、知ってるかい』と聞かれたが、ごく自然に、多少驚きつつ、『ああ、そうだね』と答えた」というにある。

右の弁解は、本件爆発物が道庁一階に装置された時刻には被告人は二宮方の自室にいた、すなわち被告人にはアリバイがあるということに尽きる。

そこで、右アリバイの成否について検討するに、被告人が、本件犯行当日の午前一時三〇分頃帰宅して就寝し、午前九時三〇分過ぎ頃外出したと供述する点については、これを裏付けるに足りる証拠は全く存在しない。その当時、被告人にとって最も身近な存在であった証人二宮恒男(第七六回公判)及び同二宮トミ(第七七回公判)の各証言でさえ、「本件当日の朝から夕方にかけての被告人の行動については、何も記憶していない」というものである。

加えて、被告人は、「後日、警察官がアパートローラーに来るだろうと考え、事件当日の行動については、そのとき弁明できるように、記憶に残す努力をした」旨供述していながら(第一〇二、一〇八回公判)、市民生協でニュース速報を見たという本件当日の午前一〇時三〇分頃以前の行動に関しては記憶がはっきりしないとして極めてあいまいな供述に終始しているのである。すなわち、「道庁爆破のニュース速報を見た以後のことは記憶にあるが、それ以前のことは、ちょっとはっきりしないところが多い」(第一〇二回公判)、「本屋に寄ったと思うが、本を買ったのかどうか分らない」(第一〇二回公判)、「何か、喫茶店に寄ったような記憶もあるが、それもはっきりしない。行き付けの喫茶店でないところへ、行ったような記憶もあるけど、ひょっとしたら、違う日のことかも分らない」(第一〇二回公判)、「本屋へ行くつもりで出たが、本屋へ行って何を読み、何を買ったかというところは、記憶が薄れてよく分らない」(第一〇二回公判)、「本屋へ行ったことは確かだが、そのときの具体的な状況がよく思い出せない」(第一〇三回公判)、「どこか一軒喫茶店に入ったような記憶はあるにはある。北二七条西四丁目付近の女主人の喫茶店に入った記憶はあるが、確かな確率をもっていうことまではできない」(第一〇三回公判)、「本屋は大体一〇時頃開くので、本屋に行って時間があり、その間、違う喫茶店に入ったのかも分らない。或いはそのまま真直ぐ行って間に合ったのかも分らない。本屋に行く前に喫茶店にもう一軒寄っているかは分らない。記憶がない」(第一〇七回公判)、「女主人の喫茶店に寄った可能性が多い」(第一〇八回公判)、「九時三〇分過ぎ頃、本屋に出掛けた。喫茶店は多分入ったろ。でもひょっとしたら、三月二日じゃなくて、違う日なのかも知れない」(第一〇八回公判)、「本屋に寄ってから喫茶店へ行った記憶がある。高い確度で断言できるようなものではない。本屋へ行って、それから女主人の喫茶店へ行った記憶があるけれども、ただ、それが果たしてその日じゃなかったかも知れないというところもあって、高い確度でもって行ったとはいえないということである」(第一〇九回公判)などというものである。

ところで、被告人の論拠に立つならば、被告人として最も記憶にとどめておかなければならないのは、むしろ、爆破時刻に、より近い時間帯の行動であるはずである。しかるに、被告人が具体的な供述をしているのは、市民生協でニュース速報を見たという本件当日の午前一〇時三〇分頃以後の行動に関してであって、それ以前の行動に関しては前述のとおり、はっきりした記憶がないとして極めてあいまいな供述をしているのであって、このことは、「後日予想された警察官の聞き込みに際して弁明できるように、当日の行動を記憶に残す努力をした」という被告人の供述と明らかに矛盾しているといわざるを得ない。

被告人の右のような供述内容に鑑みると、被告人は、真実に反するために裏付けを取られると困るところは、記憶があいまいであるとして逃げ道を残しつつ、当日より前の、或いはのちの体験を借りて、一見もっともらしい行動を仮装してその空白を埋め、真実の行動と合致し、裏付けを取られても困らないところは、そのまま、明確かつ具体的に供述し、両者を巧みにつなぎ合わせてアリバイの筋道を組み立てたものと認めるほかはない。すなわち、被告人が市民生協でニュース速報を見たという当日午前一〇時三〇分以後の行動について述べるところは、当日実際に経験したことであり、記憶のあいまいな、市民生協に入る前の行動について述べるところは、当日の実際の経験に基づくものではないというべきである。

そうすると、被告人は、山一パーキングでの仕事を終えたのち、本件当日午前一時三〇分頃自分の自動車を二宮方に置きに帰り、さも帰宅しているかのように擬装し、二宮方の自室に入らずに(一旦自室に戻り、朝早く外出したことも考えられるが、しかし早朝、普段と異なった行動をとると、年を取っていて朝目覚めも早いと思われる二宮夫婦に気付かれて記憶される危険性があるので、二宮方の自室に入らなかったと考える方がむしろ合理的である)、徒歩か或いは他の自動車で、予定された場所に行き、判示のとおり本件爆発物を道庁内に装置したのち、何らかの交通機関を利用して市民生協に至り、市民生協に入った時点から、日常の市民生活に溶け込み、朝買物のため外出していたかのように装って、さり気なく二宮方に歩いて帰って来たものと推認しても、必ずしも不合理ではないというべきである。

また、被告人のアリバイに関する弁解は、捜査段階では全く述べられず、第一〇二回公判に至って初めて主張されたものであり、何故それまでの公判でそのことに触れなかったかの理由として、「これを供述すれば、検察官に裏付け捜査をされ、結局権力によってアリバイが揉み消されてしまうので、裁判闘争の方針としてしなかった」旨述べている(被告人の最終陳述)が、その首肯し得ないことは多言を要しないところである。

以上要するに、被告人のアリバイに関する弁解は、客観的証拠による裏付けを全く欠いているばかりでなく、前叙のように、本件当日の実際の行動と架空の行動を織り込んで、もっともらしく作為したものというべきであるから、到底これを認めることができず、その弁解を容れる余地は全くないといわなければならない。

五  被告人の弁解の虚構性について

被告人の弁解の骨子は、(イ)爆弾闘争を考え、準備していたが、道庁を攻撃目標と決定していたわけではない。(ロ)本件に使用された消火器と同種の消火器を準備していたが、爆体容器として完成していなかった、(ハ)本件爆発物の爆薬と同一成分の混合爆薬を製造しようと考え、硫黄、木炭を準備していたが、除草剤を入手できなかったため、爆薬の製造に至らなかった、(ニ)時限装置の製造には取り掛かっていたが、利用した時計はスピネットであり、時限装置の方式は本件のしゅ木式とは異なり、上げバネ式であった、(ホ)自分にはアリバイがあるなどというものであるところ、既に詳述したとおり、被告人の右弁解はいずれも理由がなく、しかも、被告人には、本件の犯人でなければ到底理解し難い、犯人心理に根差した過剰な言動や異常な行動が数多く認められるのであるが、そもそも、被告人は、後日自認するに至ったもの(投棄物関係等)までも、当初は権力のでっち上げであるとうそぶき、検察官がどこまで立証し得るかを探りながら、証拠の見極めが付くまで具体的に弁明することは避け、その手の内が分ると一転して証拠と矛盾しないような弁解を構築し、自分も同様の爆弾闘争を志向し、爆弾製造を準備していた旨陳弁して、ぎりぎりの線まで認める戦術を取り、自分に犯人らしいところがあっても何ら不思議でない旨公言するなど、多弁に供述を展開しながら、肝腎のところ(特に弁解できない部分)は供述を拒否し、或いはあいまいにし、自己に不利な状況が出て来ると、その時期や時間をずらせ、供述を変えて辻褄を合わせようとするなど、虚実を取り混ぜて本件との結び付きを巧みにかわし、更には虚構のアリバイまで主張して、あくまで自己に都合のよい筋書を作り上げていることが明らかであって、被告人の右弁解が首肯し得ないことは多言を要しないところである。

六  爆発物取締罰則一条の目的及び殺意の存在

本件については、本件爆発物の構造・威力、爆発時刻、装置場所、破片の飛散状況、本件声明文の内容、被告人の抱懐していた動機等に照らし、被告人が、「治安を妨げかつ人の身体財産を害する目的」及び「殺意」を有していたことは明白である。すなわち、被告人は、本件爆発物の製造者として、その殺傷力及び破壊力を十分知悉していたものであり、爆発すれば、装置場所付近に現在する不特定多数人を殺傷し、建物等に多大の物的被害を及ぼすなど人的・物的被害が広範囲に及び得ることを十分認識し、その爆発物の威力に応ずる結果の発生することを認容していたものと認められるから、「人の身体財産を害する目的」があったことは明らかであり、また前叙の点に加え、本件爆発物を装置した場所が不特定多数人の現在する可能性の高い官庁の建物内であること、時限装置を用いて、爆発時刻を道庁職員多数が集中的に登庁する時間帯にしたこと等からみて、爆風、爆発物及び破壊された建物の破片等によって死亡する可能性のある範囲内に現在する不特定多数人に対する「殺意」があったことはもちろん、「治安を妨げる目的」すなわち「公共の安全と秩序を害する目的」があったことも明らかであるというべきである。

七  結論

以上を総合すれば、被告人及び弁護人の主張を考慮に入れても、被告人が、爆発物取締罰則一条の目的及び殺意をもって、本件犯行に及んだことは明らかであって、合理的な疑いを容れないというべきである。

第四弁護人の法律上の主張について

一  公訴棄却の申立

1  逮捕状記載の被疑事実の違法について

弁護人は、道警は、昭和五一年八月一〇日、被告人を爆発物取締罰則(以下「爆取」という)三条違反の容疑によって逮捕したが、右逮捕状に記載された被疑事実の要旨は、「被疑者は部族戦線に所属もしくは同調するものであるが治安を妨げ又は人の身体財産を害せんことの目的をもって昭和五一年八月七日ころ札幌市東区《番地省略》二宮恒男方において爆発物の製造器具である消火器、セメント、乾電池、豆電球等を所持していたものである」というにあるところ、爆取三条が処罰の対象としているのは、「爆発物の使用に供すべき器具」(以下「供用器具」という)の所持であり、「製造器具」の所持ではないから、右令状は刑罰法規上存在しないものを被疑事実とするもので、憲法三五条、三一条、刑事訴訟法二一八条、二一九条に違反する違憲、違法の無効な令状であり、また爆取三条にいう「爆発物の使用に供すべき器具」とは、爆発物を爆発させるため、その使用に備えて用を満たす機械、道具類をいうのであり、例えば、雷管、導火線などがこれに該当し、本件令状に列記されている消火器、乾電池などはこれに当たらないから、結局被疑事実は成り立たず、この令状は違法であり、右令状によってなされた被告人の逮捕も違法であり、ひいては右逮捕に基づく本件公訴提起も無効であるから、本件公訴は棄却されるべきである旨主張する。

そこで検討するに、被告人に対する本件逮捕状によれば、被告人逮捕の理由となった罪名は爆取違反であり、なるほど、その被疑事実の要旨としては弁護人主張のとおりの記載がなされていることが認められる。

ところで、爆取三条の規定によれば、同条が処罰の対象とする客観的行為は、「爆発物」の製造、輸入及び所持並びに「爆発物の使用に供すべき器具」の製造、輸入及び所持であって、本件逮捕状添付書面記載の「爆発物の製造器具の所持」はこれに当たらないといえる。しかし、《証拠省略》によれば、爆捜本部の石原警視は、被告人が投棄した物件の中に前記各物件が含まれていたところから、このうち豆電球及び乾電池は供用器具に、消火器及びセメントはこれを補完する物件であると判断し、被告人については爆取三条の供用器具所持罪が成立するとして、昭和五一年八月一〇日午前一〇時頃札幌簡易裁判所裁判官に対し右容疑による逮捕状を請求し、担当裁判官の質問に対して、被疑事実は爆取三条の供用器具所持である旨答え、併せて、右各物件が供用器具等に該当する理由を説明したこと、右説明を受けた担当裁判官は、同日午後零時一五分本件逮捕状を発付したこと、本件逮捕状添付の書面に記載されている被疑事実の要旨はもともと同警視の部下が起案したものであるが、同警視はこれに「爆発物の製造器具」と記載されていることに気付かなかったこと、そして、検察官に対する事件送致の段階でこの誤記に気付いた同警視は、これを「爆発物の使用に供すべき器具」という表現に改めて事件を送致し、検察官において勾留請求をなし、その旨の勾留状が発付されたことが認められること、ところで、爆取三条にいう供用器具とは、本来の性質上、爆発物の使用に供すべき器具であろうと、用法上のそれであろうと、爆発物を爆発させるのに不可欠のものであろうと、単に補助的なものであろうと差し支えないものと解すべきところ、消火器が爆発物を収納して密閉し、混合爆薬に威力を付与するための器具として利用され、また乾電池が起爆装置の電源として使用され得るものであることは前記認定のとおりであるから、右消火器及び乾電池が爆発物を爆発させるための供用器具であることは明らかであり、そして本件逮捕状に記載された消火器、乾電池等の例示物件が爆発物の製造器具とは異質のものであることも明白であること等に鑑みると、石原警視から説明を受けた前記の令状担当裁判官も消火器、乾電池等を爆取三条の供用器具に該当すると判断した上、本件逮捕状を発付したものと認めるのが相当であり、同裁判官において、「爆発物の製造器具の所持」が爆取三条により処罰の対象となると誤解し、消火器等を爆発物の製造器具と認めて本件逮捕状を発付したとは到底考えられないのみならず、本件逮捕状記載の消火器等の例示物件自体の性質、機能からみても、その被疑事実は「爆発物の使用に供すべき器具」に関するものと解する以外にはないというべきであるから、本件逮捕状に「爆発物の製造器具」である旨記載(正確にはその旨記載されていた被疑事実の要旨の書面をそのまま看過して添付)したのは、明らかな誤記であると認めるべきものである。

そして、かかる誤記は何ら本件逮捕状を違法・無効ならしめるものではないというべきであるが、更に右逮捕状による逮捕に引き続き、前叙のとおり、被告人に対し適法に勾留状が発付され、勾留がなされたこと等を併せ考えると、右誤記が本件公訴提起の効力を左右するものでないことは明らかであるといわなければならない。従って、弁護人の右主張は理由がない。

2  別件逮捕及び勾留むし返しの違法について

弁護人は、被告人は、前記のとおり爆取三条違反の容疑で昭和五一年八月一〇日逮捕されたが、右逮捕は、道警・道庁両爆破事件の捜査、取調べを目的としたもので、違法な別件逮捕であり、また、被告人は、右逮捕に引き続き、勾留されたのち同年九月一日勾留期間満了とともに一旦釈放されたが、同日、本件の容疑によって逮捕され、その後勾留されて同月二三日起訴され、更に同日いわゆる道警爆破事件の容疑により逮捕され、同年一〇月一五日まで勾留されたが、右の逮捕勾留期間のほとんどは本件の容疑事実についての取調べに当てられており、このことは、捜査当局が、前記爆取三条違反の容疑で被告人を逮捕した当初から本件の容疑を掛け、取調べの時間を稼ぐために引き続き三度も逮捕勾留したことを意味するのであり、違法な別件逮捕及び勾留のむし返しを図ったものであるから、本件公訴は無効として棄却されるべきである旨主張する。

なるほど、勾留状及び本件身柄関係記録によれば、被告人は、当初、爆取三条違反容疑で、引き続いて本件の容疑で弁護人主張の日時に逮捕勾留されたことが認められる。しかしながら、被告人に対しては、当初、爆取三条違反の容疑があったため、同条違反の事実を捜査する目的で逮捕勾留したことは前記認定のとおりであり、その後、構成要件は異なるがこれと密接な関連を有する本件の容疑が生じた以上、右逮捕勾留期間中に本件との関連について取調べを行うことは、当然許されるところであり、また本件が右爆取三条違反事件と密接な関連を有するものではあっても別個の重大事件であることに鑑みると、本件について、更に逮捕勾留することは何ら違法ではないから、爆取三条違反容疑による逮捕がいわゆる別件逮捕でないことはもちろん、本件の勾留も、またこれを違法な勾留のむし返しということができないことは明らかであり、従って、本件公訴提起が無効となるなどとは到底いい得ない。なお、弁護人は、本件公訴提起後のいわゆる道警爆破事件容疑による逮捕勾留についても違法な勾留のむし返しである旨主張するが、その逮捕勾留期間中に被告人が本件について自白したのならともかくとして、そうでないことは前記認定のとおりであるばかりか、右逮捕勾留は本件公訴提起後のものであってこれとは無関係のものであるから、右逮捕勾留の事実があるからといって、これが本件公訴提起の効力に消長を及ぼすものではないことは明らかである。弁護人の右主張はいずれも理由がない。

3  訴因不特定の違法について

弁護人は、本件公訴事実の冒頭には「被告人はほか数名と共謀のうえ」とあるが、検察官は、釈明によっても結局、共謀の日時、場所、態様、共謀者の氏名、人数等を明らかにし得なかった。これでは訴因が不明確かつ不特定であるから本件公訴は無効として棄却されるべきである旨主張する。

しかしながら、本件においては被告人が実行正犯であり、かつ、公訴事実には、被告人が氏名不詳者と共謀の上、実行行為に及んだ日時、場所が具体的に示されているから、訴因は十分特定されており、本件公訴提起が無効といえないことは明らかであるから、弁護人の右主張は理由がない。

4  その他

弁護人は、更に本件捜査について、拷問、自白強要、起訴後の取調べ、黙秘権や弁護権の侵害等違法があった旨述べるなどして本件公訴を棄却すべきものと主張するが、これらの主張はいずれも理由がない。

二  違法収集手続による証拠排除の申立

弁護人は、被告人が逮捕された日、前記逮捕状と同時に発付された検証許可状二通及び捜索差押許可状二通に基づいて前記二宮方の被告人居室及び被告人の自動車が検証され、捜索差押を受けたが、右四通の令状の被疑事実はいずれも前記逮捕状のそれと同一であるところ、右被疑事実は前記のとおり刑罰法規上存在しないものであって、右各令状は正当な理由に基づかずに発せられたものというべきであるから、憲法三五条、三一条、刑事訴訟法二一八条、二一九条に違反する違憲、違法なものであり、これら令状によってなされた検証結果及び押収物の証拠能力は否定されるべきであり、従って、司法警察員作成の昭和五一年八月一一日付及び同月一〇日付各検証調書、押収してあるドライバー二丁、モンキースパナ一丁、ハンマー一丁、ビニールテープ二巻、ネジ一個、砂糖(一〇・一五グラム)一袋は証拠から排除されるべきであり、更には、右証拠に関してなされた証人里幸夫(第四六、四七回公判)、同鶴原正規(第四七回公判)、同佐藤修一(同)、同吉村新(第四九回公判)及び同木村皖昭(第六〇回公判)の各証言と、これらを基にして採用されたリズム時計工業株式会社益子工場工場長吉村新作成の鑑定書、司法警察員作成の捜索差押ならびに検証状況写真撮影報告書はいずれも証拠能力がないから、これらを本件から排除すべきである旨主張する。

なるほど、本件捜索差押許可状二通には前記逮捕状と同一の被疑事実の要旨が記載された書面が添付されているが(本件検証許可状二通には被疑事実が記載された書面が添付されていない)、右各令状にはもともと被疑事実の記載は法律上要求されていない上、本件捜索差押許可状添付の書面に記載された被疑事実の要旨が、前記のとおり、誤記であることは明らかであるから、右捜索差押許可状二通はもとより本件検証許可状二通の各効力が左右されるいわれのないことは明らかであるというべく、従って、本件各令状に基づいてなされた検証等の結果を記載した前記検証調書二通、捜索差押ならびに検証状況写真撮影報告書及び押収された前記各物件に証拠能力があることは明らかであるといわなければならない。してみれば、前記各証人の各証言や吉村新作成の鑑定書の証拠能力が否定されるいわれのないことも明らかである。

以上によれば、前掲各証拠を本件から排除すべきものでないことはいうまでもないから、弁護人の右主張は理由がない。

第五法令の適用

被告人の判示所為中、爆発物使用の点は刑法六〇条、爆発物取締罰則一条に、五十嵐怜子及び溝井是徳に対する殺人の点はいずれも刑法六〇条、一九九条に、別紙負傷者一覧表記載の服部祐昌ほか八〇名に対する殺人未遂の点はいずれも同法六〇条、二〇三条、一九九条に該当するところ、右は一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、爆発物取締罰則一二条、刑法一〇条により、一罪として最も重い爆発物使用の罪の刑で処断することとし、所定刑中死刑を選択して被告人を死刑に処し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを被告人に負担させることとする。

第六量刑の事情

本件は、爆弾闘争を志向し、道庁をして攻撃破壊すべきアイヌモシリ占領の中枢機関の一つであると考えていた被告人が、自己の主義主張を爆弾攻撃によって貫徹しようと企て、氏名不詳者と共謀の上、大きな殺傷・破壊の能力を持つ手製の時限式消火器爆弾一個を、道庁一階エレベーターホールに装置して爆発させ、一瞬にして周辺一帯を修羅場と化させ、二名の尊い生命を奪い、八一名に重軽傷を負わせるとともに、約九、七〇〇万円余に上ぼる物的損害を与えたという事犯であるが、被告人が抱懐していた思想、動機、目的が本件犯行を正当化するいわれのないことはもちろん、その犯行態様も隠密裡に、計画的に、そして周到な準備のもとに、強力な威力を持つ時限装置付の消火器爆弾を製造して、これをスポーツバッグに収納し、殊更人が多数蝟集する場所、時間帯を選び、さり気なくエレベーター昇降口脇に装置して無差別大量殺人を企図したというもので、極めて残虐で兇悪極まりないものである上、自らは安全圏に退避して爆発による危険や検挙を免れつつ、確実な爆発効果を期するという巧妙かつ卑劣なものであったこと、本件により現実に惹起された結果も偶々現場に居合わせたに過ぎない道庁職員など善良な市民を多数殺傷するなど人的物的の両面にわたり極めて重大であったこと、死亡した二名は、いずれも社会人として真面目に生きてきたものであり、或いは一家の大黒柱として、或いは主婦として、これから人生の結実期を迎えようとした矢先、見るも無残な有様で突如その生命を奪われたものであって、本人の無念さはもとより、その遺族の怒り、憎しみ、悲嘆、痛憤は筆舌に尽し難いものがあるというべきところ、その遺族に与えた精神的打撃は余りにも大きく、経済的にも深刻な影響を及ぼしていること、負傷にとどまった被害者の中には、加療一か月以上の者が七四名(うち治ゆ見込不明の者三名、加療一年以上の者六名)もあり、日常生活に不自由をきたす後遺症のある者が相当数に上ぼり、被害者らに与えた精神的・肉体的苦痛や経済的負担も重大かつ深刻であること、死亡した被害者の遺族や負傷した被害者らは、極めて厳しい被害感情を有していて、極刑乃至峻厳な刑を望んでいること、被告人の本件所為は、このように最も尊重されるべき個人の生命・身体を虫けらのように扱い、公共の安全と秩序に重大な脅威をもたらしたものであって、社会一般に与えた衝撃も強烈で、世人に与えた恐怖と不安は計り知れないものがあったこと、一方被告人は、本件爆発物を製造し、これを道庁内に搬入して装置し爆発させた実行正犯であり、しかも本件声明文の作成にも関与するなど、本件犯行につき重要な役割を果たしていながら、犯行を否認しているばかりでなく、爆弾闘争を高く評価し、道庁の再爆破まで呼び掛けるなど、そこには反省心はおろか、人間的良心の一かけらも見出し得ず、その反社会的思考・性格は根深く固着していて矯正できるとは到底考えられないこと、爆弾事件は少人数での犯行が可能であり、しかも爆発による証拠の滅失などから犯人検挙が極めて困難であると思われ、更に追随者による連鎖反応を起こし易い犯罪であることに鑑みると、この種爆弾事件に対しては、一般予防・社会防衛の見地から厳罰が必要であること等本件犯行の罪質の重大性、その動機・目的、手段・態様の残虐性・兇悪性・卑劣性、被害結果の重大性、遺族・被害者らの被害感情、社会一般に与えた影響、被告人が果たした役割の重大性、被告人の犯行後の情況などに徴すると、被告人の刑事責任は極めて重大で、極刑に値するものというべきところ、被告人にはその刑事責任を軽減すべき有利な事情は何一つ認められない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 生島三則 裁判官 安藤正博 裁判官 佐藤學)

〈以下省略〉

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